伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介【山岡鉄舟】日本最強は誰?流派は?

      2019/11/07

はじめに

この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【山岡鉄舟】です。【山岡鉄舟】は剣、禅、書の達人にして西郷隆盛もその人格を賞賛した伝説の剣豪です。私はこの【山岡鉄舟】を尊敬しているため、剣豪以外の活躍も含めて少々長い記事となっていますがお許し下さい。

 

出典:https://www.biz-s.jp/

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山岡鉄舟

名前:山岡鉄舟、山岡鉄太郎高歩

流派:一刀正伝無刀流

出身:江戸

年代:江戸時代末期~明治時代(1836~1888)

※この記事では明治維新までを「鉄太郎」、以後を「鉄舟」としています。

 

神童・小野鉄太郎

鉄太郎は天保7年(1836)に御蔵奉行・小野朝右衛門高福の子として江戸で生まれました。

9歳から「真陰流剣術」を学んだ鉄太郎は、弘化2年(1845)に父が飛騨郡代となったため飛騨高山に移住。

ここで父は鉄太郎にスパルタ教育を施しました。

『剣』は「北辰一刀流」の千葉周作門下の井上八郎を家に招いて稽古させ、『書』は弘法大師流入木道51世・岩佐一亭に学ばせます。

その甲斐あって鉄太郎の『剣』の才能は開花し、さらに『書』の方でも15歳で52世を継承して『一楽斎』と号するまでになっていきました。

さらに17歳の頃からは『禅』の修行も始まりましたが、一年のうちに相次いで両親を亡くしたため、突如として鉄太郎の生活は困窮してしまいます。

そんな鉄太郎の生活に転機が訪れたのが安政2年(1855)。

『剣』の才能を見込まれていた鉄太郎は、師の援助で講武所に入ることが決まり、5人の兄弟と共に江戸へ戻ることとなります。

 

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ボロ鉄から鬼鉄へ

江戸では異母兄・小野古風のもとに身を寄せた鉄太郎たちでしたが、この異母兄の鉄太郎たちに対する扱いは冷たく、酒癖も非常に悪いものでした。

鉄太郎は弟たちを暴力から守りながら、まだ乳飲み子だった末弟のために近所に貰い乳をして回り、夜は重湯を作って与えるという苦しい生活を強いられたといいます。

このため、鉄太郎は衣服にも苦労し、周りからは『ボロ鉄』とあだ名されていました。

その後、苦心の末に弟たちをそれぞれ旗本の養子に入れ、身辺が落ち着いた鉄太郎は『剣』の修行を再開するため、千葉周作の玄武館に入門します。

そして同時期に入門した「忍心流槍術」の山岡静山が急死すると、鉄太郎は静山の弟・高橋泥舟に請われて山岡家の婿養子となり『山岡』姓を名乗ることとなりました。

玄武館での鉄太郎はこれまでの鬱憤を晴らすように剣術稽古に取り組み、町を歩いていても竹刀の音が聞こえると、どこでも飛び込んでいったといいます。

やがて玄武館で凄腕となった鉄太郎のことを『ボロ鉄』と呼ぶ者はいなくなり、代わりに『鬼鉄』とあだ名されるようになっていきました。

この道場ではサボりがちな同輩に活を入れようと木刀で厚さ一寸(約3㎝)の羽目板を貫いたというエピソードを残し、さらに酒を飲んだあとで成田山までの往復約140㎞の道のりを歩き通し、同輩たちを驚嘆させたりもしています。

また、千葉周作の息子・千葉栄次郎との試合で鉄太郎は、約20人の同輩を先に栄次郎と試合させ、疲れたところを狙って勝とうとしました。

しかし、栄次郎は全く疲れることがなく、竹刀の柄が途中で折れても勝ち続け、鉄太郎は栄次郎の強さをつくづく思い知って降参する羽目になったという失敗エピソードも残しています。

 

[出典:ameno 出典:=""]

 

浪士組取締役からの挫折

身長188センチ、体重105キロという並外れた体格を持っていた山岡鉄太郎は『鬼鉄』と呼ばれるようになると講武所の世話役として取り立てられました。

この頃から鉄太郎は混迷を極める国を憂い、安政の大獄を機に講武所の仲間・清河八郎とともに尊王攘夷を掲げた『虎尾の会』を結成します。

そして文久3年(1863)には将軍・徳川家茂の上洛にあわせて設立された『浪士組』に参加し、鉄太郎は浪士組取締役という重役を任じられました。

その後、鉄太郎は清河八郎と共に浪士組を率いて上洛を果たしたものの、京都で反幕府的な動きを見せる清河八郎を幕府は警戒し、浪士組は江戸に呼び戻されてしまいます。

鉄太郎もやむなく江戸に戻ることになりましたが、まもなく幕府から危険視された清河八郎が暗殺されると、鉄太郎は監督不行き届きもあって謹慎処分とされてしまいました。

 

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剣豪・浅利又七郎との出会い

江戸に戻って以降、日本が尊王攘夷派、佐幕派に分かれて激動の時代を迎える中で、山岡鉄太郎は活躍の場を完全に失っていました。

そんな中にあっても『剣』への熱が冷めることがなかった鉄太郎は、当時『三羽烏』の異名を持っていた「中西派一刀流」の浅利又七郎と試合を行うこととなります。

相手は名だたる剣豪とはいえ、鉄太郎は『鬼鉄』とまで呼ばれ、体躯に勝っていることからも相当な自信を持っていました。

そして小さな道場の中で、巨漢を活かして体当たりなどで攻めた鉄太郎。

しかし、当時42歳の又七郎は左右にいなして寄せ付けません。

三時間余も及んだ勝負でしたが、最後は鉄太郎が足をかけて又七郎を倒すことに成功し、得意満面で勝利宣言を行いました。

すると又七郎は 「倒れ際に片手で打った胴に手応えがあったので、私の勝ちです」と言ってきます。

このため鉄太郎が防具を外してみると、たしかに胴の内側の竹が三本折れていました。

しかし、それでも鉄太郎は「これは拙者が貧乏で、虫食いの胴を付けていたので、自然に折れたものだ」と負け惜しみを言い、道場をあとにしました。

浅利道場からの帰り道、鉄太郎は義兄の高橋泥舟に一部始終を話すと、「鉄つぁん、そいつは本物だぜ。」と言われてしまいます。

すると冷静になった鉄太郎も「俺もそう思う」と答え、反省して翌日には又七郎に詫びを入れ、そのまま浅利道場に弟子入りしました。

その後、鉄太郎は心を入れ直して稽古に励みましたが、なぜか又七郎と稽古では打ち込もうとしても一歩が出ず、後ずさりして部屋の外まで追い立てられ、戸をピシャリと閉められてしまうということを繰り返していたといいます。

 

勝海舟との出会い

慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いを受け、山岡鉄太郎は幕府要人や江戸市中警護を任務とする精鋭隊歩兵頭格として幕臣に復帰し、大坂から戻った徳川慶喜の身辺警護にあたりました。

その後、新政府軍が江戸城攻略を目指して東上を開始すると、幕府全権・勝海舟が西郷隆盛との会談を計画し、鉄太郎はその事前交渉の使者に選ばれます。

もともと勝海舟は新政府への使者を高橋泥舟に依頼していましたが、その泥舟が義弟・鉄太郎を推薦していたのでした。

また、鉄太郎も事態打開には新政府軍への恭順しかないと考えていたため、自分が赴いて交渉したいと幕府重臣にも相談していました。

泥舟の紹介で鉄太郎と会った勝海舟は、すぐにこの男が使者として最もふさわしい者だと評価し大役を任せることにしたといいます。

 

出典:https://kakunist.jimdo.com/

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西郷隆盛との対面

江戸の命運がかかる重要な使者となった山岡鉄太郎は、街道にひしめく新政府軍の中を「朝敵・徳川慶喜が家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と駆け抜けていきました。

あまりの鉄太郎の迫力に街道の各藩の藩兵たちはあっけにとられ、道を通すしかなかったといいいます。

そして始まった鉄太郎と西郷隆盛との江戸城無血開城に関する事前交渉では、降伏した後の徳川慶喜を備前藩に預けるかどうかで意見が対立しました。

ここで鉄太郎は文字通り『鉄』の意志で意見を曲げず、「立場が違って西郷先生が私ならどのようにご返事なさいますか?」と切り返して西郷隆盛をうならせます。

正式な処分案は勝海舟との会談に持ち越されましたが、この鉄太郎の事前交渉のおかげで、その後の会談は条件を少し手直しする程度で済むこととなりました。

後日、新政府大総督府から呼び出されて出頭した際、鉄太郎は薩摩藩士・村田新八から「先日、官軍の陣営を、あなたは勝手に通って行った。このため私と中村半次郎とで後から追いかけ、斬り殺そうとしたがあなたは早くも西郷のところに到着してしまったので、斬りそこねた。あまりに悔しいので呼び出して、このことを伝えたかっただけだ。」と声をかけられました。

これに対して鉄太郎は「それはそうだろう。私は江戸っ子で足が速い。貴君らは田舎者でのろまだから、私の足の速さにはとても及ぶまい」と返し、互いに大笑いして別れたといいます。

 

旧幕臣への思い

江戸城無血開城後、旧幕臣たちで構成された彰義隊は上野・寛永寺を拠点に2,000人が立て籠もっていました。

もし、新政府軍と本格的な戦闘になれば江戸に戦火が及ぶ危険があり、彰義隊の取り扱いには新政府、旧幕府ともに頭を悩ませていました。

そんな中、山岡鉄太郎は彰義隊を解散させるため、徳川家の使者としてまたしても単身で寛永寺を訪れます。

鉄太郎にとっても江戸を守るための無血開城が彰義隊により無にされてしまうことは許せませんでした。

しかし、鉄太郎が寛永寺の実力者で主戦派の僧・義観に面会を求めても全く応じてくれません。

さらに鉄太郎は若い彰義隊士から「将軍家を悲しい状況に落とし、恩を仇で返した」と罵詈雑言を浴びせられます。

さすがの鉄太郎も刀に手が伸びそうになりましたが、グッと怒りをこらえ寛永寺をあとにするしかありませんでした。

その後、鉄太郎は西郷隆盛を訪ねて「彰義隊はやがて上野で倒れるだろうが、先祖代々徳川家との恩義の絆につながれてのことであり、かわいそうでもある。」と話し、「今しばらくの猶予をいただき、それでも聞き入れない場合は、自分が官軍の隊長として彼らを討ち果たします」と懇願したといいます。

 

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明治天皇の侍従・山岡鉄舟

明治維新後、山岡鉄舟は徳川宗家の16代当主・徳川家達に従って駿府(静岡藩)に下りました。

静岡藩の藩政に関わった鉄舟は、幕臣の救済事業である牧之原台地開墾で『茶』の生産を助言するなどし、現在の『茶』の名産地としての静岡県の原型を作ります。

さらに明治2年(1869)、明治天皇の京都行幸の際に天皇から手土産の相談を受けた鉄舟は、山本海苔店に依頼して『味付け海苔』も創案しています。

その後、鉄舟は廃藩置県に伴って新政府に出仕し、静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令などを歴任。

明治5年(1872)、西郷隆盛のたっての願いがあり、鉄舟は10年間の約束で明治天皇の侍従として仕えることとなりました。

侍従時代の鉄舟は、深酒をして「相撲をとろう」とかかってきた明治天皇を諫言して反省させたり、明治6年(1873)に皇居仮宮殿が炎上した際、自宅からいち早く駆けつけたりするなど、相変わらず豪胆なエピソードを残しています。

そして10年後の明治15年(1882年)、西郷隆盛はすでにこの世にはいませんでしたが、約束どおり鉄舟は引退することとなりました。

 

出典:http://jirocho.com/

 

剣の道を極める

明治16年(1883)、政府から離れていた山岡鉄舟は維新に殉じた人々の菩提を弔うため、全生庵を建立しました。

鉄舟は『書』を人から頼まれれば断らずに書き、生涯に100万枚の揮毫を残したとも言われます。

また、鉄舟は『禅』においても印可を与えられるほどまで道を極めていました。

そして『剣』では天龍寺で座禅した際に悟るところがあり、師である浅利又七郎と再戦を行うこととなりました。

このとき又七郎は鉄舟の姿を見るなり、迷いの消えた顔になっていることに気づいて「お前は師たる私をすでに越えた」と褒め、その場で『一刀流夢想剣』の認可を与えたといいます。

さらに明治18年(1885)、鉄舟は一刀流小野宗家から道統と『瓶割刀・朱引太刀・卍の印』を継承し、「一刀正伝無刀流」を開きました。

 

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書の道を極める

明治20年頃から山岡鉄舟は体調を崩し、医師の勧告に従って『絶筆』と称して揮毫を基本的に断るようになりました。

しかし、例外として全生庵を通じた依頼だけは引き受けることにしていました。

鉄舟はこの例外だけでも8ヶ月間に10万1380枚を書き、また剣術道場の建設のために布団の上で扇子4万本の揮毫をしたといいます。

また、つねづね鉄舟は人が揮毫の謝礼を差し出すと「ありがとう」と言って快く受け取り、それをそのまま本箱に突っ込んでいました。

そして貧乏で困った者が助けを求めてくると、本箱から惜しげもなくその金を取り出して与えました。

そんな場面を目撃した者が「先生は御揮毫の謝礼は全部人におやりになるのですか」と尋ねると、鉄舟は「私はそもそも字を書いて礼を貰うつもりはないが、困った者にやりたく思って、くれればもらっているだけさ」と答えたといいます。

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

山岡鉄舟が本当に極めた道は

明治21年(1888)、人のために生き、自らは貧乏生活を続けた山岡鉄舟は座禅の姿勢のまま皇居に向かって静かに眠りにつきました。死因は胃癌。享年53。

鉄舟の葬儀は豪雨の中で行われ、事前に明治天皇の内意もあって葬列は四谷の自邸を出たあと、皇居の前で10分ほど止まりました。

そして明治天皇は高殿から葬列を見送り、鉄舟に別れを告げたのです。

 

その後、全生庵での会葬者は5千人にも上り、門人たちの中には殉死の恐れがあるため警察に保護された者や、全生庵の裏山で殉死寸前のところを発見されて止められた者、葬儀に出たまま3年間も墓前に留まった者のほか、実際に墓前で割腹して殉死した者までいました。

 

「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない。」

生前の西郷隆盛が山岡鉄舟を賞賛した言葉でした。

 

終わりに

貧乏や苦労、挫折を味わっても決して錆びることのない鉄舟の「鉄の意志」。

鉄舟は幕末に活躍した英雄たちに比べて非常に地味だし、実際に政治的なことは不器用な面があるけれど、「鉄」のように曲がらない真っすぐな姿は正に「真の侍」というにふさわしいと思います。

「剣道」「書道」「禅道」だけでなく、「武士道」までも極めていた山岡鉄舟。

明治天皇や西郷隆盛らの心を打ち、昔も今も人々から尊敬される理由は、山岡鉄舟がこれら4つの道を極めていたからではなく、それらを通じて極めたのが「人」の道だったからではないでしょうか。

 

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