【山岡鉄舟】西郷どん(せごどん)で藤本隆宏が演じる剣・書・禅を極めたラストサムライ!
2018/11/12
大河ドラマ西郷どん(せごどん)
山岡鉄舟
大河ドラマですっかり常連となった藤本隆宏さんが『西郷どん』で演じるのが、剣・書・禅を極めたラストサムライ「山岡鉄舟」。
『西郷どん』では「山岡鉄舟」は江戸城無血開城の事前交渉段階で登場し、西郷吉之助を相手に一歩も引かない論戦を繰り広げ、勝海舟と共に江戸を戦火から救う活躍をしました。
その後はほとんど出番がない「山岡鉄舟」だとは思いますが、この記事では大河ドラマ『西郷どん』では描かれない「山岡鉄舟」の生涯について紹介していきます。
※私はこの「山岡鉄舟」を歴史上の人物で一番尊敬しているため、かなり長文になっていて精神状態も正常で書いていませんwwwもっともっともっともっと書かなきゃいけないことはありますが、それはまた別の機会に置いておくとして、「山岡鉄舟」を知らない方がこの記事で少しでも興味を持っていただくと嬉しいです!
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山岡鉄舟
この記事では明治維新までを「鉄太郎」、以後を「鉄舟」としています。
神童・小野鉄太郎
鉄太郎は天保7年(1836)に御蔵奉行・小野朝右衛門高福の子として江戸で生まれた。
9歳から真陰流剣術を学んだ鉄太郎は、弘化2年(1845)に父が飛騨郡代となったため飛騨高山に移住。
ここで父は鉄太郎にスパルタ教育を施した。
「剣」は北辰一刀流・千葉周作門下の井上八郎を家に招いて稽古させ、「書」は弘法大師流入木道51世・岩佐一亭に学ばせた。
その甲斐あって鉄太郎は「剣」の才能は開花、さらに「書」の方でも15歳で52世を継承して『一楽斎』と号するまでになった。
17歳の頃からは「禅」の修行も始まったが、その一年のうちに相次いで両親を亡くし、突如生活は困窮してしまう。
安政2年(1855)、「剣」の才能を見込まれていた鉄太郎は、師の援助で講武所に入ることになり、5人の兄弟と共に江戸へ戻ることとなった。
鬼鉄・山岡鉄太郎
異母兄の小野古風のもとに身を寄せた鉄太郎たちであったが、この異母兄の扱いは冷たく、さらに酒癖も悪かった。
鉄太郎は弟たちを暴力から守りながら、まだ乳飲み子だった末の弟のために近所に貰い乳をして回り、夜は重湯を作って与えるという苦しい生活を強いられた。
この頃、鉄太郎は衣服にも苦労し、周りからは「ボロ鉄」とあだ名されていたという。
その後、苦心の末に弟たちをそれぞれ旗本の養子に入れた鉄太郎は「剣」の修行を再開するため、千葉周作の玄武館に入門。
同時期に入門した忍心流槍術の山岡静山が急死すると、鉄太郎は静山の弟・高橋泥舟に請われて山岡家の婿養子となり『山岡』姓を名乗ることとなった。
そして鉄太郎は今までの鬱憤を晴らすように剣術稽古に取り組み、竹刀の音が聞こえるところどこでも飛び込んでいった。
こうして玄武館では相手がいないほどの凄腕となった鉄太郎を、もう「ボロ鉄」と呼ぶ者はいなくなり、代わりに「鬼鉄」とあだ名されるようになっていた。
この道場ではサボりがちな同輩に活を入れようと木刀で厚さ一寸(約3㎝)の羽目板を貫いたというエピソードを残し、さらに酒を飲んだあとで成田山までの往復約140㎞の道のりを歩き通して、周りを驚嘆させたりもしている。
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浪士組取締役・山岡鉄太郎
身長188センチ、体重105キロという並外れた体格を持っていた山岡鉄太郎は、翌年には講武所の世話役として取り立てられた。
この頃から鉄太郎は混迷を極める国を憂い、安政の大獄を機に講武所の仲間・清河八郎とともに尊王攘夷を掲げた「虎尾の会」を結成する。
文久3年(1863)には将軍・徳川家茂の上洛にあわせて設立された浪士組に参加し、鉄太郎は浪士組取締役を任じられた。
その後、清河八郎と共に浪士組を率いて上洛を果たしたものの、清河八郎の動きに警戒を抱いた幕府によって浪士組の呼び戻しを命じられ、やむなく江戸に帰参。
幕府から危険視された清河八郎が暗殺されると、鉄太郎は監督不行き届きもあって謹慎処分とされた。
剣豪・浅利又七郎
日本が尊王攘夷派、佐幕派に分かれて激動の時代を迎える中、山岡鉄太郎は活躍の場を完全に失っていた。
そんな中、「剣」への熱は冷めなかった鉄太郎は、「三羽烏」の異名を持っていた中西派一刀流の浅利又七郎と試合を行った。
「鬼鉄」とまで呼ばれ、体躯に勝る鉄太郎は自信を持っていたが、いざ立合ってみると浅利又七郎の気合に呑まれ、金縛りにあい全く手出しできなかった。
これで心を入れ直した鉄太郎は、その場で弟子入りして浅利道場で稽古に励んだ。
しかし浅利又七郎との稽古では、鉄太郎は打ち込もうとしても一歩が出ず、後ずさりして部屋の外まで追い立てられ、戸をピシャリと閉められてしまうということを繰り返していた。
使者・山岡鉄太郎
慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いを受け、山岡鉄太郎は幕府要人や江戸市中警護を任務とする精鋭隊歩兵頭格として復帰し、大坂から戻った徳川慶喜の身辺警護にあたった。
その後、新政府軍が江戸城攻略を目指して東上を開始すると、幕府全権・勝海舟が西郷隆盛との会談を図り、その事前交渉として使者に鉄太郎が選ばれた。
当初、勝海舟は新政府への使者を高橋泥舟に依頼していたが、泥舟は義弟・鉄太郎を推薦。
また、鉄太郎も事態打開には新政府軍への恭順しかないと考えて、自分が赴いて交渉したいと幕府重臣に相談していた。
こうして鉄太郎と会った勝海舟は、すぐにこの男が使者として最もふさわしい者だと評価し大役を任せた。
出典:https://kakunist.jimdo.com/
江戸の命運がかかった使者となった山岡鉄太郎は、街道にひしめく新政府軍の中を「朝敵・徳川慶喜が家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と駆け抜けていった。
そして始まった西郷隆盛との江戸城無血開城に関する事前交渉では、降伏した後の徳川慶喜を備前藩に預けるかどうかで意見が対立。
しかし、鉄太郎は文字通り「鉄」の意志で意見を曲げず、「立場が違って西郷先生が私ならどのようにご返事なさいますか?」と切り返して西郷隆盛をうならせた。
正式な処分案は、勝海舟との会談に持ち越されたが、この鉄太郎の事前交渉のおかげで、その後の会談は条件を少し手直しする程度で済むこととなった。
後日、新政府大総督府から呼び出されて出頭した際、鉄太郎は薩摩藩士・村田新八から「先日、官軍の陣営を、あなたは勝手に通って行った。このため私と中村半次郎とで後から追いかけ、斬り殺そうとしたがあなたは早くも西郷のところに到着してしまったので、斬りそこねた。あまりに悔しいので呼び出して、このことを伝えたかっただけだ。」と聞かされた。
これに対し、鉄太郎は「それはそうだろう。私は江戸っ子で足が速い。貴君らは田舎者でのろまだから、私の足の速さにはとても及ぶまい」と返し、互いに大笑いして別かれたという。
教育係・山岡鉄舟
明治維新後、山岡鉄舟は徳川宗家の16代当主・徳川家達に従って駿府に下った。
静岡藩の藩政に関わった鉄舟は、幕臣の救済事業である牧之原台地開墾での「茶」の生産を助言するなどし、現在の「茶」の名産地としての静岡県の原型を作る。
さらに明治2年(1869)、明治天皇の京都行幸の際に天皇から手土産の相談を受けた鉄舟は、山本海苔店に依頼し「味付け海苔」が創案された。
その後、廃藩置県に伴って新政府に出仕し、静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令などを歴任。
明治5年(1872)に西郷隆盛のたっての願いで、鉄舟は10年間の約束で明治天皇に侍従として仕えた。
侍従時代の鉄舟は、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇を諫言して反省させたり、明治6年(1873)に皇居仮宮殿が炎上した際、自宅からいち早く駆けつけたりするなど、相変わらず豪胆なエピソードを残している。
そして10年後の明治15年(1882年)、西郷隆盛はすでにこの世にはいなかったが、生前の約束どおり鉄舟は引退した。
剣豪・山岡鉄舟
明治16年(1883)、山岡鉄舟は維新に殉じた人々の菩提を弔うため、全生庵を建立。
「書」は人から頼まれれば断らずに書き、生涯に100万枚の揮毫を残したとも言われ、「禅」においても印可を与えられるほどまで極めた。
そして「剣」では天龍寺で座禅した際に悟るところがあって、師の浅利又七郎と再戦する。
浅利又七郎は、迷いの消えた鉄舟の姿を見るなり「お前は師たる私をすでに越えた」と褒め、その場で一刀流夢想剣の認可を与えた。
さらに明治18年(1885)、一刀流小野宗家から道統と瓶割刀・朱引太刀・卍の印を継承し、一刀正伝無刀流を開いた。
書人・山岡鉄舟
明治20年頃から山岡鉄舟は体調を崩し、勧告に従って「絶筆」と称して揮毫を基本的に断るようになったが、例外として全生庵を通じた依頼だけは引き受けた。
この例外だけでも8ヶ月間に10万1380枚を書き、また剣術道場の建設のため、布団の上で扇子4万本の揮毫をした。
つねづね鉄舟は、人が謝礼を差し出すと「ありがとう」と言って快く受け取り、それをそのまま本箱に突っ込んでいた。
そして貧乏で困った者が助けを求めてくると、本箱から惜しげもなくお金を取り出して与えた。
そんな場面を目撃した者が「先生は御揮毫の謝礼は全部人におやりになるのですか」と尋ねると、鉄舟は「私はそもそも字を書いて礼を貰うつもりはないが、困った者にやりたく思って、くれればもらっているだけさ」と答えたという。
偉人・山岡鉄舟
明治21年(1888)、人のために生き、自らは貧乏生活を続けた山岡鉄舟は、座禅の姿勢のまま皇居に向かって静かに眠りについた。死因は胃癌。享年53。
鉄舟の葬儀は豪雨の中で行われ、事前に明治天皇の内意もあって葬列は四谷の自邸を出たあと、皇居の前で10分ほど止まった。
そして明治天皇は高殿から葬列を見送り、鉄舟に別れを告げた。
その後、全生庵での会葬者は5千人にも上り、門人たちの中には殉死の恐れがあるため警察に保護された者や、全生庵の裏山で殉死寸前のところを発見されて止められた者、葬儀に出たまま3年間も墓前に留まった者のほか、実際に墓前で割腹して殉死した者までいた。
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない。」
生前の西郷隆盛が山岡鉄舟を賞賛した言葉である。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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