伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介【樋口又七郎】日本最強は誰?流派は?

      2019/09/27

はじめに

伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。

日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【樋口又七郎】です。

【樋口又七郎】は家伝であった念流を追い求め、ついに再興を果たした伝説の剣豪です。

では【樋口又七郎】について流派や出身地も含め簡単に説明します。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/

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樋口又七郎 

名前:樋口又七郎定次

流派:馬庭念流

出身:上野国

年代:戦国時代(1554~1600)

念流への思い

樋口家の遠祖は木曽義仲四天王の一人・樋口次郎兼光であり、11代目に当たる樋口太郎兼重は念阿弥慈恩の高弟となり、念流の兵法を修めて「兼重念流」を興していました。

この兼重の子孫たちは樋口家の兵法として念流を受け継いでいましたが、13代目の高重の代に上野国馬庭村に移り住むと、高重は「新當流」を修めて樋口家の兵法は新當流へ変わっていき、17代目の又七郎定次の頃には念流の兵法はほとんど忘れ去られていました。

「樋口家系」には、「念流8世又七郎定次、父業を継ぎ新當流を修め、業祖の遺流を復せんと欲すれど得る処なく」とあり、又七郎は父から新當流を学んだが満足できず、祖先が修めた念流へ回帰の思いが強かったことが分かります。

ともかく、かつて家伝であった念流への思いがありながら日々過ごしていた又七郎。

ある日、又七郎は親戚の串田清兵衛が馬庭にフラッとやってきた眼医者の友松偽庵と試合をして負けたことを知ります。

そしてよくよく調べてみると、実はこの友松偽庵は念流正当7世にあたる者でした。

素性を知った又七郎は、すぐさま入門を願い出て友松偽庵から念流を学び、17年後に印可を与えられることなりました。

その後も又七郎は馬庭で念流道場を開き、さらに修行に邁進。

慶長3年(1598)には友松偽庵から伝書を受けて、又七郎はついに念流正当8世を名乗るようになりました。

 

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決闘

慶長5年(1600)、又七郎は馬庭に現れた「村上天流」を名乗る村上権右衛門と木剣での試合を行うことになります。

この権右衛門は木剣の中に真剣を仕込んだ得物を使うとの噂があり、又七郎は試合にあたり神明の加護を求めて山名八幡宮に三日三晩の参籠を行いました。

すると満願の日、又七郎は持っていた木剣で岩を叩くと、岩は真っ二つに割れたといいます。

 

出典:http://s.webry.info/

 

 

3月15日、又七郎と権右衛門の決闘は高崎烏河原で行われました。

開始早々、権右衛門は噂通り真剣を仕込んだ木剣を振りかざし、飛び出した真剣が又七郎を襲いました。

しかし、これをギリギリでかわした又七郎は、真っすぐに権右衛門の頭上に木剣を振り下ろします。

権右衛門もこれを十文字の形で受け止めようとしましたが、又七郎の剛剣は無常にもそのまま権右衛門の脳天を砕きました。

のちに、この決闘について又七郎は「我の木剣をかわすか切り落とせばいいものを、引いて受け止めるとは未熟」と語っていたといいます。

この後、又七郎は樋口家当主の座を弟・頼次に譲り「修行に終わりはない」と言って、彦根にいる師・友松偽庵のもとへ旅立っていきました。

樋口家の縁の松本家には、その後又七郎は彦根で右京という者と闘って敗死したと伝わっています。

 

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決闘の時、樋口又七郎の剣は受け止められたにもかかわらず、権右衛門の脳天をカチ割ることができたのは念流の日々の稽古のおかげ。

念流の組太刀で頭から股下まで一気に斬り下ろす稽古が行われているのは、この又七郎の剛腕が影響しているのではないのでしょうか。

さらに現在でも念流の演武では、十文字に受け止められた状態から押し切る技が伝えられているというのですから、この又七郎の決闘が念流の中でいかに重要な出来事だったのかって話ですよね。

 

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