伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介【仏生寺弥助】日本最強は誰?流派は? | おもしろきこともなき世をおもぶろぐ

伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介【仏生寺弥助】日本最強は誰?流派は?

      2018/08/13

はじめに

伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。

日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【仏生寺弥助】です。

【仏生寺弥助】は知る人ぞ知る幕末に生きた天才剣士、アホだけど底なしの強さを持った伝説の剣豪です。

これまで幕末のたくさんの剣豪を紹介していますが、私はこの【仏生寺弥助】が特別に好きなので、とにかくこのアホ天才剣士を知って欲しいと思い書きました。

では、少々長い記事ではありますが、おそらく幕末最強の剣豪であろう【仏生寺弥助】について紹介します。

 

 

出典:http://auction.ba9ma2.com/

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仏生寺弥助 

名前:仏生寺弥助

流派:神道無念流

出身:越中国?

年代:江戸時代末期(1830~1863)

 

剣豪・仏生寺弥助誕生

仏生寺弥助は、越中国の漁村に生まれたとされている。

15~16歳ぐらいに江戸へ出て、神道無念流の剣術道場・練兵館の風呂焚きの仕事に就いたが、弥助は暇があれば道場を覗き、稽古の様子を熱心に見ていた。

その様子を日々見ていた練兵館の隠居先生・岡田利貞が「お前はいつも道場を覗きに参るが、剣術が好きか」と聞くと、弥助は「竹内の音を聞くと、じっとしておられません」と答えた。

このため岡田利貞は道場主・斎藤弥九郎の許しを得て、弥助に剣術の教えてやることにした。

すると弥助の剣の才能は一気に開花し、岡田利貞は「これまでに教えた奴でもここまでの者はいなかった」と驚き、すぐに弥助に仕事をやめさせ、あらゆる限りの剣技を教えることにした。

弥助は初心者ながら練達者を打ち負かすほどの腕前で、普通は7~8年かかるところを弥助は2年余りで免許皆伝となり、故郷の仇生寺村にちなんで仏生寺を姓として「仏生寺弥助」と名乗るようになった。

このとき弥助は18歳、斎藤弥九郎の長男・新太郎21歳、三男・歓之助は16歳だった。

 

仏生寺弥助の実力

仏生寺弥助の構えは左上段だけだったが、速さと変化の多彩はずば抜けていて、先に「面を打つ」と予告しても誰も防ぐ事が出来なかったという。

また、弥助は普通の体格でありながら巨漢を相手にしてもひけを取らず、これまた予告後に上段前蹴りを繰り出しても必ず当たったという。

才覚を認めていた斎藤弥九郎は、弥助を塾頭にしようと勉学をすすめていたが、もともと無学な上にいいかげんな性格のため、平仮名さえ満足に覚えられずに自分の名前さえ書けないままであった。

しかし、その後も弥助の剣術は磨かれ続け、実力は新太郎、歓之助兄弟を遥かにしのぐとの噂まで立ち、周囲からは「斎藤塾の閻魔鬼人」とまで呼ばれた。

粗暴な弥助であったが、大恩ある斎藤弥九郎の息子たちには一歩譲って試合では勝とうとしなかったという。

しかし、弥助の剣を見出した岡田利貞は、弥助の腕が兄弟のそれを上回っていることを見抜いていた。

 

 

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高杉晋作との試合

塾頭になれなかったのがイヤになったのか、勉学を勧められるのがイヤになったのか分からないが、仏生寺弥助は突如、練兵館を飛び出した。

その後は、ヤクザの用心棒をやったり、勤王志士の仲間になったりと適当な生活を送っていたが、気が向いたときには練兵館に現れていたという。

同じ斎藤門下の長州藩士・高杉晋作は、道場では弥助と会ったことがなかったが、その名前だけは聞いていた。

ある時、高杉晋作は剣術修行で諸国を廻ったとき、信州松代でたまたま弥助に出会った。

弥助の強さに興味があった高杉晋作は、すぐに試合をしてみたが「全く歯が立たなかった」と悔しそうに同志に語っている。

 

練兵館の救世主・仏生寺弥助①

練兵館を岡田利貞や斎藤兄弟が留守にしていたある日のこと、凄腕の道場破りがやってきた。

高弟たちが相手をするものの、全て一撃で打ち込まれ練兵館は創設以来の危機が訪れる。

そこにひょっこり現れたのが、ボロボロの服を身にまとった仏生寺弥助。

話を聞いた弥助は「どれどれ、俺が相手してやるよ。道具貸して」と言うなり、道場に出た。

十本勝負で行われた試合は、弥助が左上段の速攻でまず一本。

「さ、二本目いくぞ。面な」

二本目も、弥助は構えを変えずに強烈な一撃をくらわせる。

相手は何とか対応しようと構えや間合いを変化させたが、弥助は左上段の構えを変えようともせず、立て続けに十本の面を決めた。

「なんだ・・・こんなもんか、話にならんわ」

外出から戻り、試合を途中から見ていた岡田利貞は、弥助のことを「鉄の草鞋で日本国中探しても二人といないだろう」と言ったという。

 

 

出典:https://www.e-hon.ne.jp/

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練兵館の救世主・仏生寺弥助②

幕末には長州岩国に宇野金太郎という男がいた。

金太郎の強さと性格の悪さは有名で、誰もがその道場を避けて通ったという剣豪だった。

以前に、江戸からの修行帰りの桂小五郎が挑んだときも、強烈な小手で打ち込んで試合続行不可能にさせている。

ある時、この金太郎は肥前大村藩で剣術師範を務めていた「鬼勧」の異名を持つ斎藤弥九郎の三男・歓之助を打ち負かした。

これに対し、勧之助は練兵館の面子潰れを恐れ、すぐに江戸の岡田利貞に手紙を出した。

内容は『宇野金太郎に雪辱を果たしたいため、仏生寺弥助に来て欲しい』というもの。

剣術師範としての面目を保つため、プライドを捨てて歓之助は弥助の援助を請うたのである。

歓之助の手紙の内容を聞かされると、弥助はすぐに出立して歓之助と合流し、九州地方の回遊修行を終えていた金太郎の道場へ向かった。

そして道場に着いた歓之助はまず「この前はお見苦しい試合をしてしまい申し訳なかった」と金太郎に詫びを入れた。

すると金太郎はうなずき「良い心掛けである。何度でも試合に応じても良いぞ」と小バカにしたように答え、後ろにいる弥助のことなど全く気にしていない。

怒りを抑えつつ歓之助は「では、江戸の練兵館を代表してこの仏生寺弥助がお相手致します」と紹介する。

普段は礼儀知らずな弥助も、この時ばかりは手をついて挨拶。

金太郎は「やれやれ」と言わんばかりに了承し、十本勝負で試合することとなった。

そして試合が始まると、いきなり弥助は大胆に左上段の構えをみせて金太郎を驚かせた。

上段の構えは「守り」を捨てた「攻め」重視の構えであるため、普通は自分よりも熟練している者にとるべき構えではない。

「こいつ何だ?バカか?」

カチンときた金太郎は一気に間合いを詰めようとしたが、その瞬間、稲妻ような強烈な衝撃が頭に走った。

「!?・・・なんだ?・・・今のは?・・・」

金太郎には弥助の剣が全く見えていなかった。

歓之助の弟子と思われるクソ剣士ごときになぜ打たれたのかと動転する金太郎。

構えを変えて「次は決める」と意気込んだが、弥助の容赦ない剣は立て続けに金太郎の面を三本打った。

「面がくる」と分かっていても防ぐことができず、混乱した金太郎は続く四本目の勝負を辞退してしまう。

弥助の完全勝利だった。

そして無言で落ち込んでいる金太郎に、すかさず歓之助は試合を申し込む。

さすがに金太郎は辞退しようとしたが、歓之助は許さず無理矢理に試合をさせて勝利を得ることができたという。

 

 

出典:https://www.suruga-ya.jp/

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稀代の剣豪・仏生寺弥助の最期

その後の仏生寺弥助は、相変わらずいかがわしい暮らしを重ねて諸国を放浪していたといわれる。

長州浪士隊に加わり、尊王攘夷志士として活動するも、敵対する新選組の局長・芹沢鴨と親密な関係にあったという。

この芹沢鴨も相当に腕の立つ剣豪であったが、弥助には頭が上がらなかったといわれる。

そして弥助は新選組に鞍替えしようとしたところ、その強さを恐れた錬兵館の仲間に酔わされた後に粛清された。

一説には粗暴の行動があったとして京都で泥酔しているところを、斎藤弥九郎の長男・新太郎に斬られたともいわれている。享年33。

 

どうですか?アホ天才剣士・仏生寺弥助。

とにかく強い!「天は二物を与えず」と言いますが、仏生寺弥助は正にその通り剣だけしかない正真正銘の「剣豪」。

勉強しないわ、勝手にどっかに行っちゃうわ、悪い奴らとつるむわ、ホントどうしようもない奴ですが、危ない時にはなぜかフラッと現れて敵を叩きののめす。

もはや漫画の世界ですww

師匠や息子さん達には、恩を忘れないカワイイ一面を持ち、どうしても憎めない。

きっと、斎藤弥九郎先生も岡田利貞先生も、そんな感情で仏生寺弥助を見ていたことでしょう。

適当な性格は最後まで治らず、最終的には練兵館に見放されて剣豪としては冴えない最期となってしまいますが、それもまた「弥助らしい」と言えば「弥助らしい」し。

数多くの剣豪、有名な維新志士を輩出した幕末において、こんなアホでカワイイ天才剣士がいたっていいじゃないですか。

私は「幕末の剣豪で誰が一番強い?」と聞かれたら、まずは「仏生寺弥助」と答えるようにしています。

ところで、鬼勧・斎藤歓之助ってマジで汚いねwwww

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