伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介【清河八郎】日本最強は誰?流派は?

   

はじめに

伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。

日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【清河八郎】です。

【清河八郎】は尊王攘夷の志を内に秘め、後ろ盾を持たぬまま幕府を手玉に取った志士であり、伝説の剣豪です。

では【清河八郎】について流派や出身地も含め簡単に説明します。

 

 

出典:http://www.girls-style.jp/

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清河八郎 

名前:清河八郎

流派:北辰一刀流

出身:出羽国

年代:江戸時代末期(1830~1863)

 

清河八郎は出羽国庄内藩郷士・齋藤豪寿の子として生まれた。

八郎は清川関所役人の畑田安右衛門から学問を学び、後の天誅組総裁・藤本鉄石と出会い親交を深める。

弘化4年(1847)に江戸に出た八郎は、神田お玉が池の東条一堂の漢学塾の門を叩き、西隣にあった玄武館では北辰一刀流で剣を磨いた。

普通の門人が5日に一度のところを、八郎は月に20日は道場に通い、1年で免許皆伝を許されたという。

その後、江戸幕府の学問所である昌平黌で学んだ八郎は、私塾「清河塾」を開設。

当時の江戸市中で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけであった。



安政2年(1855)には母親を連れて半年間、諸国を巡り、各国の名士と親交を深めるが、八郎が残した記録には辛辣で手厳しい批評が多いことで知られる。

安政7年(1860)に桜田門外の変が起こり、これに触発された八郎は倒幕・尊王攘夷の思想を強めていった。

清河塾には幕臣・山岡鉄舟ら憂国の士が集まりだし、八郎を盟主として「虎尾の会」を結成。

「虎尾の会」は尊王攘夷の志を胸に倒幕の計画まで立てていたが、幕府の知るところとなって八郎は幕府の監視を受けた。

さらに八郎は罵声を浴びせてきた密偵を斬り捨てたため、幕府からは追われる立場となる。

この時の手配書には、「中背、太り気味、総髪で色白、鼻高く、眼鋭し」と書かれている。

 

 

出典:http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/

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その後、八郎は倒幕運動のため京に潜伏したり、諸国を回ったりして遊説を続ける。

倒幕・天皇親政を夢に描いた八郎は、「回天」の言葉をよく使って尊王攘夷の火種を撒き散らし、京の公家にまで影響力を及した。

そして山岡鉄舟らを通して幕府政治総裁職・松平春嶽に攘夷の断行、大赦の発令、天下の英材の教育を掲げた「急務三策」を提言し、幕府開明派との太いパイプを持つようになった。

幕府は八郎の建策に従い、京の治安回復のため「浪士組」の結成を許可すると、八郎は幕府を出し抜いて、今度は佐幕派を集め出した。

将軍・徳川家茂上洛の際、浪士組を率いて京へ出発した八郎は、到着した夜に浪士を集めて本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷を行い朝廷に尽くすと告げた。

この八郎の考えに反対した芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らは「浪士組」から離脱して、のちに壬生浪士組(新選組)が出来ることになる。

さらに幕府は朝廷から攘夷の勅命が下ったために狼狽し、不穏な空気を見せていた「浪士組」を江戸へ呼び戻すこととなった。

江戸に戻った八郎は「浪士組」を動かそうとするが、完全に幕府と対立していたために命を狙われていた。

そして八郎は、幕府の命を受け待ち伏せしていた幕府講武所指南役で「浪士組」の一員でもある佐々木只三郎ら6名によって麻布赤羽橋で首を討たれた。享年34。

佐々木只三郎は、挨拶を交わそうとした八郎の背後から別の者に斬りかからせたといわれる。

 

 

出典:http://blog.xuite.net/

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腹に一物も二物も抱えていた清河八郎は、幕府を手玉に取ったまでは良かったけど、イマイチ詰めが甘い。

各国の名士を批判しているところを見ると、かなり自信過剰だったのかな?

確かに清河八郎のやったことは、のちの明治維新の先駆けにはなっているけど、少し早すぎ、強引すぎたのかも。

「剣豪」としての実績はほとんどなく未知数ですが、佐々木只三郎が真正面から斬ろうとしなかったのは、清河八郎が相当な腕前だと認めていたからでしょう。

政治的活動ばかりが目立ち、それによって殺されてしまう清河八郎は、実は隠れた幕末の「剣豪」だったかもしれません。

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