はじめに
ここではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【土方歳三】です。【土方歳三】は「鬼の副長」として新選組を率い、蝦夷地で散った伝説の剣豪です。というか武人です。そもそも【土方歳三】は超有名人なのでここでは簡単にサラッと説明しています。詳細などはWikipediaなどでお願いします。
土方歳三
名前:土方歳三、土方義豊、内藤隼人
流派:天然理心流
出身:武蔵国
年代:江戸時代末期~明治時代(1835~1869)
バラガキ
土方歳三は天保6年(1835)、武蔵国多摩郡に農家・土方義諄の四男として生まれました。名は義豊。
父は歳三の生前に亡くなり、6歳の時には母も亡くして、次兄の喜六夫婦に養育されたといいます。
少年期の歳三は、端正な顔立ちに似合わず乱暴な少年で村では『バラガキ』と呼ばれて煙たがられていました。
歳三は10代で江戸の松坂屋に奉公に出ますが、すぐに店の者とケンカして飛び出し、17歳の時には奉公先の女中に手を出して妊娠させ、郷里に追い返されたといいます。
その後、歳三は剣術道具一式と背負いながら各地の道場で剣術の腕を磨きつつ、打ち身に効くという土方家秘伝の『石田散薬』の行商を始めました。
やがて姉の嫁ぎ先であった佐藤彦五郎宅に『試衛館』の近藤勇が出稽古に来ていたことで、二人は出会いました。
安政6年(1859)、「天然理心流」に正式入門した歳三。
文久元年(1861)には近藤勇が「天然理心流」4代目宗家を襲名し、記念に開かれた紅白の野試合で歳三は紅組の大将を守る役で出場しました。
近藤勇の剛剣に対して、歳三はしなやかで器用な太刀捌きが特徴で、立ち合いには朱塗りの皮胴に真紅の面紐をつけていたといいます。
しかし、歳三は「天然理心流」の免許には至っておらず、目録を与えられたに過ぎませんでした。
新選組
文久3年(1863)、歳三は試衛館の仲間とともに、14代将軍・徳川家茂の警護のために作られた浪士組に参加し、京都へ赴きます。
浪士組は京都に着いてから分裂しましたが、歳三らは京都に残り『壬生浪士組』を結成。
その後、近藤勇を局長として『新選組』が発足すると、歳三は副長となって戦闘部隊としての規律・統制を内側から支えるなどで辣腕を振るいました。
歳三の組織運営と精密な集団戦法を組み上げた才能は、もはや剣豪というよりは武人というべきもの。
また、新選組内で別派をなしていた芹沢鴨の粛清など、「陽」の近藤勇とは対照的に歳三は新選組の「陰」の部分を担っていました。
鬼の副長
新選組の名が天下に鳴り響いた元治元年(1864)の池田屋事件の際は、歳三は別動隊を率いて先に到着していた近藤勇らの応援に駆けつけ、池田屋の周りを固めて後から駆けつけた会津藩・桑名藩の兵を中に入れず、新選組の手柄を守りました。
その後、歳三は総長の山南敬助と対立し、居場所がなくなった山南敬介が脱走して切腹する事件が起こりますが、実際のところ二人は仲の良かったとする説もあり真偽のほどは分かっていません。
また、歳三は隊の規律を守るために河合耆三郎、谷三十郎、武田観柳斎らを切腹、または斬殺させたとも言われていますが、これも隊規との関連性は判明していません。
しかし、新選組から分裂した伊東甲子太郎の『御陵衛士』にスパイとして斎藤一を送り、油小路の変で御陵衛士を壊滅させたのは歳三の策であると言われています。
「待たせたな」特集
武士の本懐
世の中が倒幕に傾き、新選組が活躍の場所を失っていきつつあった慶応4年(1868)、歳三は怪我をした近藤勇の代わりに隊を率いて鳥羽伏見の戦いに臨みますが、洋式訓練を受けた新政府軍の前に惨敗。
井上源三郎など多くの歴戦の隊士を失ない、江戸に戻った歳三は「これからの戦いは刀槍ではラチが明かない。鉄砲には敵わない」と明言したといいます。
その後、千葉の流山で近藤勇を失った歳三は、大鳥圭介が率いる旧幕府軍に参加し、『伝習隊』を率いて宇都宮城攻略へ向かいます。
歳三にとっては初めての洋式部隊を指揮しての戦闘でしたが、これを見事に攻略して指揮官として才能を見せつけました。
こののち歳三は会津戦争を経て新選組の生き残りを合流し、仙台から榎本武揚の艦隊とともに蝦夷地・箱館に向かいます。
蝦夷地では新政府軍の松前城を制圧するため松前討伐軍が編成され、総裁となった歳三は700の兵を率いて出陣しました。
そして歳三は籠城軍が砲撃のために門を開いたわずかな隙に銃撃部隊を突撃させ、見事に陥落させています。
その後、箱館軍№2の陸軍奉行並となった歳三は最激戦地の二股口の防衛にあたり、敗走してくる味方に対して「我この柵にありて、退く者を斬らん」と鼓舞していましたが、乱戦の中で腹部に銃弾を受け絶命しました。享年35。
剣豪として印象が薄い歳三ですが、路上での実戦では滅法強かったと言われており、京都では斬り合いの時には足で砂をぶつけ、ひるんだ隙に斬ったり、首を絞めて絞殺したりなど、型にとらわれない戦闘をしていたといいます。
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