大河ドラマ「青天を衝け」
渋沢平九郎
NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主役・渋沢栄一には、7歳しか違わない「渋沢平九郎」という養子がいました。
戊辰戦争の最中、わずか22歳で死ぬことになるこの「渋沢平九郎」の生涯は、この時代ではありがちな武士の姿と呼べるものでした。
しかし、渋川栄一はこの「渋沢平九郎」に対する思い入れは強く、実業家となってからは「渋沢平九郎」の生涯を世間に発信し、時代に翻弄された悲劇のヒーロー像が築かれていきます。
幕末の至る所であったであろう武士の最期が、金の力によって特別なものとなってしまうのはいかがなものかとは思いますが、この記事では渋沢栄一によって歴史に名を残すことになった「渋沢平九郎」の生涯について簡単に紹介したいと思います。
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渋沢平九郎
尾高平九郎として
弘化4年(1847)、渋沢平九郎は武蔵国下手計村で村役人を輩出するような豪家・尾高家で生まれました。
兄には私塾を開いていた尾高惇忠(17歳年上)がいたほか、母の実家は渋沢家であったため、渋沢栄一、渋沢成一郎とは従兄弟の間柄でした(栄一7歳年上、成一郎9歳年上)。
尾高家、渋沢家は農民ながら地元では名士とされるような一族。
このため、平九郎は幼いころから学問を始め、剣術も神道無念流を学んでのちに人に教えるほどまで上達したといいます。。
文久3年(1863)、尾高惇忠、渋沢栄一、渋沢成一郎らが尊王攘夷運動に目覚め、高崎城を乗っ取って外国人居留地である横浜を焼く計画を企てます。
この計画には平九郎も参加するつもりでしたが、兄の尾高長七郎が必死の説得により計画自体が中止となってしまいました。
このあと一族に罪が及ぶことを恐れた渋沢栄一は京都に逃れましたが、平九郎は兄と郷里にとどまって子供たちに学問や剣術を教える道を選びました。
渋沢平九郎として
京都で一橋家に仕えた渋沢栄一は慶喜の将軍就任と同時に幕臣に取り立てられ、慶応3年(1867)には慶喜の弟・徳川昭武に随行してパリ万博視察のため海を渡ります。
この時、渋沢栄一はフランスで「もしも」の場合があってはいけないと、平九郎を養子として渋沢家の跡継ぎとしました。
幕臣・渋沢家に入った平九郎は江戸で屋敷を構えますが、時代はめまぐるしく変化する幕末。
間もなく大政奉還が行われて幕府が消滅し、やがて新政府軍と旧幕府軍が鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争に発展していきます。
渋沢平九郎は「幕臣の子になったからには徳川家に忠義を示さなければならない」という強い思いから、鳥羽伏見の戦いの直前にフランスの渋沢栄一に宛てて「徳川氏の一大事です。早く昭武と帰国して下さい」と手紙を書き送っています。
彰義隊と振武軍
鳥羽伏見の戦いで勝利した新政府軍が江戸にが迫がると、将軍慶喜は恭順の意を示しました。
そして江戸城が明け渡されると聞いた幕臣たちは不満を持ち、次々に脱走していきます。
渋沢成一郎は幕臣たちを集め、寛永寺で謹慎していた慶喜を警護を目的として『彰義隊』を結成。
ここに渋沢平九郎も加わりました。
その後、慶喜が水戸に送られると彰義隊の中で頭取・渋沢成一郎と副頭取・天野八郎の対立が発生します。
渋沢平九郎が天野派から襲撃を受けるような事態にまで発展した内部対立は、渋沢派が彰義隊から脱退し新たな組織『振武軍』を結成することで落ち着きました。
やがて上野戦争が起こり、彰義隊が新政府軍から攻撃を受けると、渋沢平九郎ら振武軍は禍根を忘れて彰義隊の救援に向かいます。
しかし、振武軍が到着する前に彰義隊が壊滅してしまったため、渋沢平九郎たちは一橋領のある飯能に入ることとなりました。
渋沢平九郎の最期
彰義隊の生き残りを吸収して振武軍は大きくなりましたが、新政府軍はすぐに振武軍鎮圧に乗り出してきます。
すると振武軍は新政府軍の最新装備の前に圧倒され、逃げ延びた渋沢平九郎は身分を隠して黒山村に向かうことにしました。
道中、峠の茶屋の女主人から「飯能から来たんでしょう?黒山村へのこの道は危ない。逃げ延びる道を教えましょう」と声をかけられても、あくまで身分を明かさずこれを断った渋沢平九郎。
しかし、「刀を所持していては危険ですよ」の忠告には納得して女主人に大刀を預けたといいます。
その後、渋沢平九郎は黒山村に向かう道で新政府側の広島藩兵に見つかり、詰問されて正体がバレてしまいました。
渋沢平九郎は飛びかかってきた藩兵の片腕を小刀で斬り落とし、「山にはまだ60人の同士がおるぞ!」とハッタリをかまして銃を持つ藩兵に斬りかかります。
背後にいた藩兵から斬りつけられても、振り向いてその藩兵に一太刀浴びせる渋沢平九郎。
さらに銃をもつ別の藩兵にも斬りかかろうとしますが、その藩兵から放たれた銃弾が太ももを貫通します。
しかし、全くひるむことない渋沢平九郎の姿に藩兵たちは怖れ、たまらず逃げ出していきました。
この戦闘で身体に2か所の重傷を負ってしまった渋沢平九郎は、「これは助からない」と覚悟を決め、岩の上に座って自刃。享年22。
幕臣・渋沢家の子として徳川家のために忠義を尽くした若武者の最期でした。
その後
その後、渋沢平九郎の首は新政府軍によって取られ、さらし首にされてしまいます。
しかし、これを気の毒に思った僧侶は、秘かに渋沢平九郎の首を奪って林の中に埋葬しました。
残っていた遺体も村人によって手厚く葬られますが、村人たちは遺体が誰のものか分からないまま「脱走のお勇士様」とよんで首から上の病気治癒の神様として崇めたといいます。
帰国した渋沢栄一の渋沢平九郎への思いは強く、のちに自刃した場所に自刃碑を建てたほか、自刃に使われた小刀を探し続け、元広島藩士から返還することも実現させています。
そして実業家として成功した渋沢栄一は、その後も渋沢平九郎の生涯を広めるための伝記や、モデルにした演劇など追悼事業も行っていくのです。。
【青天を衝け】全話・あらすじ