青天を衝け|渋沢成一郎|彰義隊から戊辰戦争、維新後は実業家として成功した栄一の従兄弟

      2019/09/12

大河ドラマ青天を衝く
渋沢成一郎

2021年、NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主役は令和6年(2024年)から新一万円札の顔となる渋沢栄一。

尊王攘夷志士から幕臣、新政府官僚を経て日本資本主義の父と称される大実業家となった栄一には共に育ち、共に大成功を収めた従兄弟「渋沢成一郎」がいました。

この「渋沢成一郎」の人生は、栄一と似かよったものとなっていますが、栄一とは決定的に違っている部分が一つだけあります。

栄一が日本を留守にしていた戊辰戦争時、旧幕府軍として新政府軍と激戦を繰り広げていたこと。

この記事では彰義隊の頭取として新政府軍を苦しめた「渋沢成一郎」の生涯について簡単に紹介したいと思います。

 

 

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渋沢成一郎

栄一と共に農民から幕臣へ

渋沢成一郎は天保7年(1838)、武蔵国血洗島村の農民・渋沢文左衛門の長男として生まれました。

文左衛門の兄が渋沢栄一の父であり、二人は従兄弟の間柄(成一郎が2歳年上)。

幼い頃の記録はありせんが、豪農だった渋沢家で育った渋沢成一郎は栄一と共に従兄弟・尾高惇忠が開いた塾で学問や算盤、また渋沢一族でもある大川平兵衛から剣術を学んだと推定されます。

やがて青年となって尊皇攘夷の志に目覚めた渋沢成一郎は、文久3年(1863)に栄一らと共に高崎城乗っ取り計画を企てますが、尾高惇忠の弟・長七郎の必死の説得により中止することとなりました。

その後、渋沢成一郎は江戸へ逃げますが、元治元年(1864)に一橋家に仕えていた栄一に招かれ、一橋慶喜に仕えます。

各地の農村から農兵を募る交渉役として功を立てた渋沢成一郎は、慶応2年(1866)に陸軍附調役に昇格。

慶応3年(1867)に慶喜が将軍となると、渋沢成一郎は幕臣に取り立てられ、奥右筆にまで出世を遂げました。

 

出典:https://www.shibusawa.or.jp/

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彰義隊から官僚、そして実業家へ

栄一が徳川昭武に随行してフランスに向かって間もなく、日本は倒幕運動が本格化。

慶応4年(1868)に戊辰戦争が起こると、渋沢成一郎は鳥羽・伏見の戦いに参戦し、江戸に帰還した後は将軍警護のために仲間を集め、自ら頭取となって彰義隊を結成しました。

しかし、徳川慶喜が謹慎場所を江戸から水戸へ移した際、渋沢成一郎は上野からの撤退を主張したため、副頭取の天野八郎との対立して彰義隊を脱退することになります。

その後、同じく脱退した同志と共に振武軍結成した渋沢成一郎は官軍と戦うものの敗退。

それでも徹底抗戦を貫いた渋沢成一郎は、榎本艦隊に合流してから振武軍と彰義隊を合体させて新しい彰義隊を結成し、東北各地を転戦しました。

 

 

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箱館戦争では松前城を攻撃した際、渋沢成一郎は松前城から金を持ち出したことで彰義隊を渋沢派と反渋沢派に再び分裂させています。

敗色濃厚となった明治2年(1869)、渋沢成一郎は旧幕府軍を脱走して新政府軍に投降。

その後、渋沢成一郎は投獄されましたが、明治時代になると先に新政府で官僚となっていた栄一の仲介で大蔵省に入ります。

そして近代的な製糸産業の調査のためヨーロッパに渡航した渋沢成一郎は、帰国後に大蔵省を退職し、経済の才能を活かして実業家に転身。

後に生糸貿易業、廻米問屋などを経営するなど大成功を収め、大正元年(1912年)に75歳で死去しました。

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

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