大河ドラマ「青天を衝け」
尾高惇忠
NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主役・渋沢栄一は動乱の幕末から明治維新を経て、日本資本主義の父と呼ばれるほどの大実業家になっていきますが、栄一の人生に幼少期に影響を与えた「尾高惇忠」という従兄弟がいました。
渋沢栄一より10歳年上だった「尾高惇忠」は幼い頃より学問に優れ、地元で私塾を開いて渋沢家の子供たちを教えていました。
最初は一族の年長者から学問を教える先生となった「尾高惇忠」ですが、その後の「尾高惇忠」は逆に渋沢栄一の人生に引っ張られるような生き方をしていきます。
この記事では幼少期から青年期の渋沢栄一に大きな影響を与え、のちに渋沢栄一から影響を受けていく「尾高惇忠」」の生涯について簡単に紹介したいと思います。
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尾高惇忠(あつただ・じゅんちゅう)
尾高惇忠は、文政13年(1830)に 武蔵国下手計村で名主の尾高勝五郎保孝の子として生まれました。
兄弟には長七郎、妹にはのちに渋沢栄一の最初の妻となる千代、さらに渋沢栄一の養子となる平九郎がいます。
豪農の渋沢家とも縁の深かった尾高家では子供に対しての教育も熱心であり、尾高惇忠も幼いころから学問に触れていました。
やがて学問に秀でた尾高惇忠は、17歳で自宅に私塾『尾高塾』を開いて近所の子供たちに学問を教え、従兄弟である渋沢栄一らもここに通っていました。
幕末になり、次第に尊皇攘夷運動が盛んになってくると、文久3年(1863)に尾高惇忠は従兄弟の渋沢成一郎、渋沢栄一らと高崎城を襲撃して武器を奪い、外人居留地である横浜を焼き討ちにしたのち、長州藩と連携を結んで幕府を倒そうとするというとんでもない計画を立てました。
しかし、この計画は弟の長七郎の必死の説得により中止となってしまいます。
その後、尾高惇忠は郷里で静かにしていましたが、渋沢栄一が一橋慶喜に仕えて幕臣となると状況は一変。
倒幕が主流となった中で、今度は尾高惇忠たちが将軍のために忠義を尽くすことになっていきます。
慶応4年(1868)に戊辰戦争が始まると、尾高惇忠は渋沢成一郎らが結成した将軍警護を目的とする『彰義隊』に参加します。
しかし、頭取の渋沢成一郎が副頭取の天野八郎と対立して彰義隊を離れると、尾高惇忠も同時に脱退し共に『振武軍』を結成して新政府軍と戦うこととなりました。
飯能で一戦交えた振武軍ですが、新政府軍の最新兵器の前には歯が立たず敗退。
この戦いで実弟・渋沢平九郎は自決しますが、尾高惇忠と渋沢成一郎らは生き延びて東北から箱館まで新政府軍に徹底抗戦しました。
明治維新後、渋沢栄一が大蔵省官僚となると、またしても尾高惇忠を取り巻く状況は一変。
尾高惇忠は渋沢栄一のツテで官営富岡製糸場の経営に携わる実業家となり、秋蚕の飼育法の研究や普及にも尽力していきました。
明治9年(1876)、製糸場を離れた尾高惇忠は翌年から第一国立銀行の盛岡支店、仙台支店の支配人などを務め、一方で製藍法の改良・普及にも尽力して『蚕桑長策』、『藍作指要』などの著書を残しました。
明治34年(1901)死去。享年71。
【青天を衝け】全話・あらすじ