はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【斎藤新太郎】です。【斎藤新太郎】は『力の練兵館』で有名な斎藤弥九郎の長男として「神道無念流」を長州を中心とする西国に広めた伝説の剣豪です。それでは【斎藤新太郎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
斎藤新太郎
名前:斎藤新太郎、斎藤龍善、斎藤弥九郎
流派:神道無念流
出身:江戸
年代:江戸時代末期~明治時代(1828~1888)
長州藩との結びつき
斎藤新太郎は文政11年(1828)に練兵館の創設者・斎藤弥九郎の長男として江戸に生まれました。
弟には『鬼歓』と呼ばれた歓之助がおり、兄弟は父のもとで「神道無念流」を学んでいました。
また、練兵館では剣術だけでなく、総合的な教育施設という側面を持っていたため、新太郎も幼いころから儒学、文学、書画に触れて才能を発揮。
成長してからは江川英龍にも入門して砲術なども学ぶなど、先進的な技術にも興味を示していました。
弘化4年(1847)、新太郎は江川英龍の屋敷で行われた江戸の10道場が参加した他流試合に参加した後、廻国修行に出発。
この修行の旅で新太郎は、久留米藩の「加藤田神陰流」の加藤田平八郎や、柳河藩の「大石神影流」の大石進などと立ち合うなど九州を中心に西国を巡っていきました。
また、嘉永2年(1849)には大村藩を訪れて試合を行い、大村藩士をコテンパンにしたことから、のちに弟・歓之助が大村藩の剣術師範として召し抱えられる要因を作っています。
その後、新太郎は長州藩の萩を訪れ、「片山流」や「柳生新陰流」の道場で試合をしました。
この時、長州藩士は誰も新太郎に及ばず、その結果を聞いた長州藩家老は「神道無念流」を評価し、家臣を江戸の練兵館に入門させることになりました。
一方、新太郎は長州藩士の稽古を「黄金の鳥籠に雀を飼っているようなものだ」と揶揄して帰国したため、長州藩士の怒りを買っていました。
後日、江戸の練兵館には来島又兵衛ら十数名の長州藩士が殴り込みましたが、たまたま新太郎が不在であったため、弟の歓之助が相手になり、得意の突きで長州藩士たちを倒したといわれています。
嘉永5年(1852)、新太郎は長州藩から再び萩に招かれ、藩校の明倫館で指導を行いました。
この時の新太郎は前回とは異なり、試合に負けることもあったようで、勝敗にこだわらずに指導を重点に置いていたといいます。
やがて江戸に戻る際、新太郎の指導を高く評価した長州藩は有能な剣士の留学させることを決めました。
ここで選ばれた剣士7名の中に桂小五郎がいて、桂はのちに練兵館を代表する剣豪となっていきます。
嘉永6年(1853)、新太郎は父・弥九郎と共に長州藩江戸屋敷に招かれ、「神道無念流」が長州藩に正式に採用されます。
また翌年には、福井藩江戸屋敷で弥九郎、新太郎、歓之助を筆頭に、練兵館門下生100人以上が福井藩主・松平春嶽の前で剣術試合を行いました。
試合では新太郎の大上段、歓之助の突きを防げる者はいなかったといいます。
その後の新太郎
その後、父・弥九郎が隠居し、2代目・弥九郎を襲名した新太郎は、文久3年(1863)に滞在していた下関で長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国との間に起きた下関戦争に遭遇。
この時、新太郎は外国人の首を取ろうと長州藩の軍艦に乗り込みましたが、あえなくアメリカ軍艦に撃沈されてしまいました。
このあと新太郎は長州藩を離れ、江戸に戻って講武所剣術師範に就任し、慶応2年(1866)に幕府遊撃隊肝煎役、慶応3年(1867)には幕府歩兵指南役並など幕府の要職を歴任しました。
明治維新後の明治3年(1870)、新太郎は夜に起きて蚊帳から出ようとしたところを何者かに襲撃されました。
新太郎は相手を抑え込みましたが、右肩を斬られていたために右手が動かず、逃げられてしまったといいます。
明治6年(1873)、榊原鍵吉が撃剣興行を催して成功を収めると、新太郎も撃剣興行を催し、地方を回って幕末の事柄についての講演を行いました。
その後、剣術はすでに過去のものとなり、新太郎は生活に困って製茶業を始めます。
しかし、これを失敗した新太郎は父の隠居所だった代々木の山荘まで手放すこととなってしまいました。
明治15年(1882)、新太郎は東京集治監の看守長となりますが、やがて休職となり、明治21年(1888)に死去しました。
おわりに
父・斎藤弥九郎の陰に隠れた「力の練兵館」の功労者・斎藤新太郎。
道場の奥でドデーンと座っているの社長・弥九郎だとすると、新太郎は各地を飛び回る敏腕の営業部長ってところかな。
新太郎がいたからこそ、練兵館は長州藩と結びつき、幕末三大道場の一つになっていったといっても過言ではありません。
しかし、下関戦争後に幕府の要職についてしまったのが、この人の失敗なのかな?
やがて明治政府の中心となる長州藩とそのままベッタリでやっていれば、もしかすると新政府内で職があったのかも。
剣豪とはいえども練兵館では様々な教育を受けていたわけだし、色んな方面で活躍できる優秀な人物だったと思いますけどね。
惜しいなぁ。
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こんにちは。伝説の剣豪・剣士・剣、斎藤新太郎を拝読いたしました。
「その後の新太郎」の段で、新太郎が下関事件で長州藩の軍艦に乗り込んだ云々とありますが、これは二代目新太郎こと斎藤五郎之助です。
防長回天史第三篇下に書かれています。(ただ『五郎之助と弟九一郎』と記されてますが、齋藤九一郎は赤の他人です)
語彙が乏しくて何んというのか、そのころ五郎之助は長州藩で働いていたのですね。
Wikipediaの斎藤新太郎の欄にも「下関に滞在していて外国人の首を取ろうと……」と記載されていますが、まちがいです。ウィキペディアは結構間違いがあるらしいですよ。
だいたい、外国人の首を取ろうなんて、ホントに言ったんでしょうか。どこかに文書が残っているのでしょうかね。
私もそんなに詳しく調べて理解しているわけではないのですが、この件につきましては訂正した方が良いです。初心者は信じてしまい、あとで混乱しますから。
どうぞよろしくお願いいたします。(*^▽^*)