伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介【大川平兵衛】日本最強は誰?流派は?

      2019/10/18

はじめに

伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。

日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【大川平兵衛】です。

【大川平兵衛】は前半と後半の人生が別人のように異なる少し不思議な生き方をした伝説の剣豪です。

では【大川平兵衛】について流派や出身地も含め簡単に説明します。

 

出典:http://ranzan.blog.jp/

 

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大川平兵衛

名前:大川平兵衛、大川英勝

流派:神道無念流

出身:武蔵国

年代:江戸時代後期~明治(1801~1871)

敗北

大川平兵衛は享和元年(1801)、武蔵国埼玉郡上之村の農家・渡辺家の三男として生まれました。

幼くして上之村名主・小鮒新右衛門の養子となると、農民ながら剣の道にのめり込み、神道無念流の達人・秋山要助の道場に入門して20歳の時に免許皆伝を受けます。

その後、文政5年(1822年)に大川与左衛門の娘・糸子と結婚して婿養子となり「大川」姓を名乗ると、道場を開いて仇討に助勢するなどして名を高めていきました。

しかし、この地方には甲源一刀流という流派が羽振りを利かせていて、大川平兵衛は江戸で名を広めた神道無念流が田舎剣法に遅れをとることが許せません。

そして天保7年(1836年)、ついに大川平兵衛は実力で評判を勝ち取るため、弟子を連れて甲源一刀流に乗り込みました。

ここで大川平兵衛は甲源一刀流宗家・逸見義隆に仕合を申し込みましたが、受けてたたれたのは義隆ではなくが、甥で若干19歳の逸見長英でした。

 

近所の野次馬が集まる中、共に木刀を持ち相対した両者。

逸見長英は「当流には胴打ちがあるので、胴を付けてください」と言いいますが、大川平兵衛は「無用!」と吐き捨てます。

しかし、いざ仕合が始まると長英の突きで大川平兵衛は後ずさりしてしまい、すかさず打たれた胴によって大川平兵衛は血を吐いて倒れました。

誰の目から見ても完敗でしたが、諦めきれない大川平兵衛は「今のは門人の誰かが袴の裾を引っ張ったので倒れたのだ」と言い訳します。

すると甲源一刀流の門人たちから「勝手に後ずさりしたから引っかかったのだ」と非難ごうごう。

これに腹を立てたのは大川平兵衛の弟子ですが、刀に手をかけようとすると窓から銃口がのぞいているのが見えました。

このため、大川平兵衛たちは仕方なく負けを認めてスゴスゴと帰るしかありませんでした。

 

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リベンジ達成

その後、逸見長英は秩父の小天狗と呼ばれて評判となり、甲源一刀流の道場はますます栄えていきます。

幸い仕合の場所が遠方だったため、大川平兵衛の道場がある地方までは勝負の内容が伝わっていませんでしたが、やはり負けたことが気に食わない。

このため、大川平兵衛は傷が治ると甲源一刀流の胴打ちの研究を重ね、新しい甲源一刀流の相手を探しました。

そして見つけた相手は甲源一刀流2代目・逸見義苗の弟子の福岡半之輔という男。

大川平兵衛が仕合を申し込むと、並々ならぬ復讐心を知らない福岡半之輔は簡単に引き受けてくれました。

仕合では福岡半之輔が繰り出した突きに対し、一歩も下がらなかった大川平兵衛が面を打って勝利。

こうして大川平兵衛は神道無念流と自分の道場の名声を高めることができました。

 

仕官

弘化5年(1845)、大川平兵衛は川越藩の剣術を実用的なものへ変革するため仕官しました。

この頃、川越藩では上・中級藩士が入門する「表稽古」と呼ばれる公式流派と、下級藩士・足軽が入門する「内稽古」と呼ばれる非公式流派に分かれており、他流試合も禁じられていました。

大川平兵衛も当初は下級藩士・足軽に神道無念流を指導していましたが、嘉永2年(1849年)に道場を開くと門人を増やし、藩から禁じられていた農民や町人との試合を行なっていきます。

この中で、幕末や明治維新後に活躍する尾高惇忠や渋沢栄一など指導しました。

 

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剣術改革

やがて幕末になると日本全国の藩で軍備強化が主要課題となり、川越藩も文久2年(1862)に大規模な軍制改革が行なって他流試合を認められるようになりました。

すると、これまで実際の試合を行っていた神道無念流が重要視されるようになり、大川平兵衛も正式に師範に任じられて神道無念流は公式流派となります。

しかし、農民出身の大川平兵衛の抜擢には、これまで他流試合を禁じてきた従来の公式流派師範たちが面白くありません。

中傷する者や、隠居強制を画策する者、集団で闇討ちを計画する者が現れ、これを見かねた川越藩は全流派に他流試合実施を強制しないという妥協案を取ることとなりました。

これで大川平兵衛の剣術改革は挫折したかに見えましたが、時代は激動の時代にあって改革の気運は徐々に高まっていきます。

元治元年(1864)からは上・中級藩士の神道無念流入門が増加し、ついには下級藩士・足軽に稽古ができない状況にまでなると、川越藩は流派に関係なく混じって稽古し、神道無念流も教授する「寄合剣術」を開始しました。

その後、藩内で発言力を増した大川平兵衛は、慶応元年(1865)に川越藩の飛び地である領地の防衛体制強化のため、剣術指導を主張して認められます。

川越藩の飛び地だった上野国の前橋に完成した練武所は剣術改革を望む有志により運営されていましたが、慶応3年(1867)に藩主・松平直克が前橋城に入る(以後、前橋藩)と、練武所では他の公式流派も他流試合を行うようになり、大川平兵衛の念願だった剣術改革は達成されました。

こののち大川平兵衛は練武所教授方に就任しましたが、明治維新が成ると前橋藩は剣術流派を統合して「新流」という流派を作り、従来の剣術流派師範は皆解任されました。

これを期に大川平兵衛も郷里に戻りましたが、地元での名声も高かった大川平兵衛は門弟3,000人といわれた道場を構え、明治4年(1871)に死去しました。

 

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調子に乗って逸見長英に敗れた大川平兵衛。

面目を保つために行った復讐の仕方があまりにもカッコ悪い。

普通ならそこは逸見長英にリベンジしてこそ剣豪、サムライでしょうよ。

そんな大川平兵衛が後半生に藩の剣術改革に人生を懸けるってのが全く理解不能。

どうしてそうなったの?別人?というぐらいの変わりっぷり。

人間って分かんないもんですね。この人を調べるとつくづく感じてしまいます。

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