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伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介【大川平兵衛】日本最強は誰?流派は?

投稿日:2019年9月18日 更新日:

はじめに

この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【大川平兵衛】です。【大川平兵衛】の生涯は前半の『ザコキャラ』と後半の『改革者』の二つに分かれ、それぞれが別人のように異なる不思議な生き方をした伝説の剣豪です。それでは【大川平兵衛】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。

 

出典:http://ranzan.blog.jp/

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大川平兵衛

名前:大川平兵衛、大川英勝

流派:神道無念流

出身:武蔵国

年代:江戸時代後期~明治(1801~1871)

ザコキャラ

大川平兵衛は享和元年(1801)、武蔵国埼玉郡上之村の農家・渡辺家の三男として生まれました。

幼くして上之村名主・小鮒新右衛門の養子となると、農民ながら剣の道にのめり込み、「神道無念流」の達人・秋山要助の道場に入門して20歳の時に免許皆伝を受けます。

その後、文政5年(1822年)に大川与左衛門の娘・糸子と結婚して婿養子となり「大川」姓を名乗ると、道場を開いて仇討に助勢するなどして名を高めていきました。

しかし、この地方には「甲源一刀流」という流派が羽振りを利かせていて、平兵衛は江戸で名を広めた「神道無念流」が田舎剣法に遅れをとることが許せません。

そして天保7年(1836年)、ついに平兵衛は実力で評判を勝ち取るため、弟子を連れて「甲源一刀流」の道場に乗り込みました。

平兵衛は甲源一刀流宗家・逸見義隆に仕合を申し込みましたが、相手として立ち上がったのは義隆ではなく、甥で若干19歳の逸見長英でした。

 

近所の野次馬が集まる中、共に木刀を持ち相対した両者。

長英は「当流には胴打ちがあるので、胴を付けてください」と言ってきますが、若造となめきっていた平兵衛は「無用!」と吐き捨てます。

しかし、いざ仕合が始まると長英の突きで平兵衛は後ずさりしてしまい、すかさず打たれた胴によって平兵衛は血を吐いて倒れてしまいました。

誰の目から見ても完敗でしたが、諦めきれない平兵衛は「今のは門人の誰かが袴の裾を引っ張ったので倒れたのだ」と負けを認めません。

すると「甲源一刀流」の門人たちからは「勝手に後ずさりしたから引っかかったのだ」とヤジが飛びます。

これに腹を立てたのは平兵衛の弟子ですが、刀に手をかけようとすると窓から銃口がのぞいているのが見えました。

このため、平兵衛たちは仕方なく負けを認めてスゴスゴと帰るしかありませんでした。

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リベンジ達成

その後、逸見長英は『秩父の小天狗』と呼ばれて評判となり、「甲源一刀流」の道場はますます栄えていきます。

幸い仕合の場所が遠方だったため、平兵衛の道場がある地方までは勝負の内容が伝わっていませんでしたが、やはり負けたことが悔しくて仕方ない平兵衛。

このため平兵衛は傷が治ると「甲源一刀流」の胴打ちの研究を重ね、新しい相手を探しました。

そして見つけた相手は甲源一刀流2代目・逸見義苗の弟子の福岡半之輔という男。

平兵衛が仕合を申し込むと、並々ならぬ復讐心を知らない福岡半之輔は簡単に引き受けてくれました。

仕合では福岡半之輔が繰り出した突きに対し、一歩も下がらなかった平兵衛が面を打って勝利。

こうして平兵衛は「神道無念流」と自分の道場の名声を高めることができました。

仕官

弘化5年(1845)、平兵衛は川越藩の剣術を実用的なものへ変革するため仕官しました。

この頃、川越藩では上・中級藩士が入門する『表稽古』と呼ばれる公式流派と、下級藩士・足軽が入門する『内稽古』と呼ばれる非公式流派に分かれており、他流試合も禁じられていました。

平兵衛も当初は下級藩士・足軽に「神道無念流」を指導していましたが、嘉永2年(1849年)に道場を開くと門人を増やし、藩から禁じられていた農民や町人との試合を行なっていきます。

この中で、幕末や明治維新後に活躍する尾高惇忠渋沢栄一などを指導しました。

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剣術改革

やがて幕末になると日本全国の藩で軍備強化が主要課題となり、川越藩も文久2年(1862)に大規模な軍制改革を行なって他流試合を認めるようになりました。

すると、これまで実際の試合を行っていた「神道無念流」が重要視されるようになり、平兵衛も正式に師範に任じられて「神道無念流」は公式流派となります。

しかし、農民出身の平兵衛の抜擢には、これまで他流試合を禁じてきた従来の公式流派の師範たちが面白く思うはずはありません。

中傷する者や、隠居強制を画策する者、集団で闇討ちを計画する者が現れ、これを見かねた川越藩は全流派に他流試合実施を強制しないという妥協案を取ることとなりました。

これで平兵衛の剣術改革は挫折したかに見えましたが、時代は激動の時代にあって改革の気運は周りから徐々に高まっていきます。

元治元年(1864)からは上・中級藩士の「神道無念流」への入門が増加し、ついには下級藩士・足軽に稽古ができない状況にまでなると、川越藩は流派に関係なく混じって「神道無念流」も教授する『寄合剣術』を開始しました。

その後、藩内で発言力を増した平兵衛は、慶応元年(1865)に川越藩の飛び地である領地の防衛体制強化のため、同地の剣術指導を主張して認められます。

そして川越藩の飛び地だった上野国の前橋には『練武所』が完成し、剣術改革を望む有志により運営されました。

慶応3年(1867)、藩主の松平直克が前橋城に入る(以後、前橋藩)と『練武所』では他の公式流派も他流試合を行うようになり、平兵衛の念願だった剣術改革は達成されました。

こののち、平兵衛は練武所教授方に就任しましたが、明治維新が成ると前橋藩は剣術流派を統合して「新流」という流派を作り、従来の剣術流派師範は全員解任されました。

これを期に平兵衛も郷里に戻りましたが、地元での名声も高かった平兵衛は門弟3,000人といわれた道場を構え、明治4年(1871)に死去しました。

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おわりに

調子に乗って逸見長英に敗れた大川平兵衛。

面目を保つために行った復讐の仕方があまりにもカッコ悪い。

普通ならそこは逸見長英にリベンジしてこそ剣豪、サムライでしょうよ。

そんな大川平兵衛が後半生に藩の剣術改革に人生を懸けるってのが全く理解不能。

どうしてそうなったの?別人?というぐらいの変わりっぷり。

人間って分かんないもんですね。

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時代 剣豪名 流派
平安 鬼一 法眼 京八流
源 判官 義経 太刀の術
室町 念阿弥 慈恩(相馬 義元) 念流
中条 兵庫頭 長秀 中条流
飯篠 長威斎 家直 天真正伝香取神道流
松本 備前守 政信 鹿島神流
愛洲 移香斎 久忠 陰流
戦国 塚原 卜伝 高幹 鹿島新當流
山本 勘助 晴幸 京流
竹内 中務大夫 久盛 竹内流
上泉 伊勢守 信綱 新陰流
宝蔵院 胤栄 宝蔵院流
富田 五郎左衛門 勢源 富田流
奥山 休賀斎 公重 神影流
柳生 石舟斎 宗厳 柳生新陰流
北畠 具教 鹿島新當流
師岡 一羽 常成 一羽流
足利 義輝 鹿島新當流・新陰流
疋田 豊五郎 景兼 疋田陰流
丸目 蔵人 長恵 タイ捨流
林崎 甚助 重信 神夢想林崎流
根岸 兎角(信太 朝勝) 微塵流
伊藤 一刀斎 景久 一刀流
斎藤 伝鬼坊 勝秀 天流
真壁 暗夜軒 氏幹 霞流
富田 越後守 重政 富田流
樋口 又七郎 定次 馬庭念流
吉岡 憲法 直綱 吉岡流
江戸 東郷 重位 示現流
小野 忠明(神子上 典膳) 小野派一刀流
小笠原 源信斎 長治 真新陰流
柳生 但馬守 宗矩 柳生新陰流
片山 伯耆守 久安 片山伯耆流
鐘捲 自斎 通家 鐘捲流
柳生 兵庫助 利厳 柳生新陰流
松山 主水 大吉 二階堂平法
夢想 権之助(山本 勝吉) 神道夢想流
小栗 仁右衛門 正信 小栗流
宮本 武蔵 玄信 二天一流
高田 又兵衛 吉次 宝蔵院流
神谷 伝心斎 直光 直心流
針ヶ谷 夕雲 正成 無住心剣流
上泉 義胤(上泉 秀信) 民弥流
松林 蝙也斎 永吉 夢想願流
田宮 平兵衛 重正 田宮流
荒木 又右衛門 保知 柳生新陰流
佐々木 巌流 小次郎 巌流
伊藤 典膳 忠也 忠也派一刀流
柳生 十兵衛 三厳 柳生新陰流
薬丸 兼陳 薬丸自顕流
柳生 連也斎 厳包 柳生新陰流
関口 八郎左衛門 氏業 関口流
高田 三之丞 為長 柳生新陰流
伊庭 是水軒 秀明 心形刀流
今枝 佐仲 良台 初實剣理方一流
辻 月丹 資茂 無外流
高木 馬之輔 重貞 高木流
真里谷 円四郎 義旭 無住心剣流
堀部 安兵衛 武庸 馬庭念流
樋口 十郎兵衛 定暠 馬庭念流
楳本 法神 政武 法神流
寺田 五右衛門 宗有 天真一刀流
戸賀崎 熊太郎 暉芳 神道無念流
近藤 内蔵之助 長裕 天然理心流
平山 行蔵 講武実用流
岡田 十松 吉利 神道無念流
岡田 惣右衛門 寄良 柳剛流
浅利 又七郎 義信 中西派一刀流
白井 亨 義兼 天真一刀流
中西 忠兵衛 子正 中西派一刀流
千葉 周作 成政 北辰一刀流
大石 進 種次 大石新陰流
男谷 精一郎 信友 直心影流
高柳 又四郎 義正 中西派一刀流
伊庭 軍兵衛 秀業 心形刀流
幕末 斎藤 弥九郎 善道 神道無念流
大川 平兵衛 英勝 神道無念流
加藤田 平八郎 重秀 加藤田新陰流
遠藤 五平太 正贇 中西派一刀流
島田 虎之助 直親 直心影流
逸見 小源太 長英 甲源一刀流
橘 内蔵介 正以 柳剛流
浅利 又七郎 義明 中西派一刀流
勝 海舟 安邦 直心影流
桃井 春蔵 直正 鏡新明智流
大山 格之助 綱良 薬丸自顕流
宇野 金太郎 重義 片山伯耆流
斎藤 新太郎 龍善 神道無念流
清河 八郎 正明 北辰一刀流
黒河内 伝五郎 兼規 神夢想一刀流
仏生寺 弥助 神道無念流
上田 馬之助 美忠 鏡新明智流
高杉 晋作 春風 神道無念流・柳生新陰流
桂 小五郎(木戸 孝允) 神道無念流
佐々木 只三郎 泰昌 神道精武流
斎藤 歓之助 歓道 神道無念流
千葉 栄次郎 成之 北辰一刀流
河上 彦斎 玄明 我流
近藤 勇 昌宜 天然理心流
坂本 龍馬 直柔 北辰一刀流
高橋 泥舟(高橋 伊勢守) 自得院流
土方 歳三 義豊 天然理心流
沖田 総司 房良 天然理心流
永倉 新八(長倉 載之) 神道無念流
伊庭 八郎 秀穎 心形刀流
斎藤 一(藤田 五郎) 無外流
岡田 以蔵 宜振 鏡新明智流
中村 半次郎(桐野 利秋) 薬丸自顕流
明治 山岡 鉄舟 高歩 一刀正伝無刀流
榊原 鍵吉 友善 直心影流
松崎 浪四郎 直之 加藤田新陰流
渡辺 昇 武常 神道無念流
奥村 左近太 奥村二刀流・直心影流
得能 関四郎 通久 直心影流
牟田 文之助 高惇 鉄人流
根岸 信五郎 資剛 神道無念流
門奈 正 水府流・北辰一刀流
高山 峰三郎 直心影流
逸見 宗助 立身流
高橋 赳太郎 高運 無外流
本間 三郎 本間念流
川崎 善三郎 重徳 無外流
高野 佐三郎 豊正 中西派一刀流
内藤 高治 北辰一刀流
山田 次朗吉 鹿島神傳直心影流
中山 博道 神道無念流

 

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