はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【浅利又七郎】です。【浅利又七郎】は幕末に活躍した幕臣・山岡鉄舟の師匠で、数多い剣豪の中でも一番といっていいほどの謙虚さを持った伝説の剣豪です。それでは【浅利又七郎】について流派や出身地も含め簡単に説明します。
浅利又七郎
名前:浅利又七郎
流派:中西派一刀流
出身:江戸
年代:江戸時代末期~明治(1822~1894)
中西家から浅利家へ
浅利又七郎義明は一刀流中西道場第4代・中西忠兵衛子正の次男として生まれ、中西家の後見を務めた浅利又七郎義信から剣術を学んでいました。
浅利家は中西道場の別格家であり、本家に跡継ぎが無くなった場合に流派を継ぐとされた家でした。
義明は週1,400回の立ち合い稽古を行い、親から受け継いだ才能を自らの努力で開花させ、「中西派の門弟で受け切る者がいない」といわれました。
一方、浅利又七郎義信は弟子の千葉周作と養女を結婚させて浅利道場を継がせていましたが、意見の対立から周作夫婦を離縁していました。
このため義明が中西家より浅利家に養子に入り、浅利道場を名実共に受け継いで「浅利又七郎義明」を名乗ることとなります。
その後、又七郎はのちに「一刀正伝無刀流(無刀流)」を開くことになる山岡鉄舟と立合っています。
この時、小さな道場の中で鉄舟は190㎝、105㎏という巨漢を活かして体当たりなどで攻めました。
しかし、当時42歳の又七郎は左右にいなして寄せ付けず、三時間余も勝負がつきません。
ついに鉄舟が足をかけて又七郎を倒すと、 又七郎は「山岡さん、今の勝負はどうでしたか?」と聞きました。
得意満面で「拙者の勝ちです」と答えた鉄舟ですが、又七郎は 「倒れ際に片手で打った胴に手応えがあったので、私の勝ちです」と言います。
そして鉄舟が胴を外して見てみると、内側の竹が三本折れていました。
しかし、それでも鉄舟は「これは拙者が貧乏で、虫食いの胴を付けていたので、自然に折れたものだ」と負け惜しみを言い、道場をあとにします。
浅利道場からの帰り道、鉄舟は義兄・高橋泥舟に一部始終を話すと、泥舟からは「鉄つぁん、そいつは本物だぜ。」と言われてしまいます。
すると鉄舟も「俺もそう思う」と反省し、翌日には又七郎に非礼を詫びて門人となりました。
若き日の山岡鉄舟
その後の又七郎と鉄舟
晴れて弟子となった鉄舟ですが、その後の又七郎との立ち合い稽古では打ち込もうとしても一歩も足が出ませんでした。
又七郎は下段に構え、ジリジリと間合いを詰めると、鉄舟には又七郎の剣先から炎が吹き上げているように見えたといいます。
鉄舟が一歩下がると、又七郎が一歩前に出るを繰り返し、ついには鉄舟は部屋の外まで追い立てられ、バタンと戸を閉められる有様。
又七郎との稽古はこの繰り返しで一向に上達することがなかった鉄舟。
その後は江戸城無血開城などの政治的活動で奔走するものの、常に鉄舟の頭の中からは又七郎の幻影が消えませんでした。
ちなみに幕末の名臣・勝海舟も「又七郎義明は剣道の神様。この人に掛かれば、どんな人でも手足が縮んで動けなかった。」と語っています。
その後、時が流れて明治13年(1880)。
鉄舟は明治天皇の侍従として仕えながら、又七郎を超えようと剣術や禅の修行を続けていました。
そんなある日、鉄舟が座禅を組みに行くと、天龍寺の禅師から「お前はせっかく澄んだ目を持っているのに、わざわざ曇った眼鏡をかけている」と言葉をかけられます。
すると、これに悟るところがあった鉄舟は禅の『三昧』の境地に入ったといいます。
そして又七郎を招いて再び立ち合った時には、鉄舟の頭の中から又七郎の幻影はすっかり消えていました。
この時、又七郎は真っすぐに立つ鉄舟の姿を見るなり、「貴殿の剣は境地に達せられた。もはや私の及ぶところではない」と爽やかに剣を納めて「一刀流」の印可を授けたといいます。
二人が初めて試合をしてから17年目のことでした。
又七郎は維新後、駿府藩主・徳川家達の剣術指南役を務めていましたが、この鉄舟の斡旋で有栖川宮家の撃剣御用係になって威仁親王の剣術を指導。
明治27年(1894)にその生涯を終えています。
おわりに
山岡鉄舟とのエピソードが目立つ浅利又七郎。
剣に生涯をかけ、弟子を圧倒した又七郎は、その後に鍛錬を重ねた弟子の剣を謙虚に受け止める素晴らしい人物。
剣に生きた者であれば「相手より強いこと」を目的とするものですが、又七郎はそれを目的とせず、自分の剣に対する謙虚を持っていた。
「剣豪」にとって剣とは人生そのもの。
又七郎は「剣の先生」でもありながら、「人生の先生」とも言えるような存在だと思います。
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