はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【近藤長裕】です。【近藤長裕】は新選組局長・近藤勇が振るった「天然理心流」を創始した伝説の剣豪です。それでは【近藤長裕】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
近藤長裕
名前:近藤内蔵助長裕
流派:天然理心流
出身:遠江国
年代:江戸時代末期(?~1807)
多摩に広まる実力重視の剣術
近藤長裕は幕末に名を轟かせた新選組の局長・近藤勇が使った「天然理心流」を創始した人物。
長裕は遠江国の出身といわれ、剣術を好んで諸国を歩いて修行を重ね、常陸国の鹿島神宮に詣でて剣の極意を悟ったといいます。
『鹿島神道流・飯篠長威入道三十四代』と書かれた文書も存在していて、長裕は「神道流」の末流を学んで自分の流派を開いたと考えられています。
また、近藤弥吉政竜と試合して勝ち、その姓を受けて近藤姓を名乗ったともいわれていますが、試合に勝って姓を奪うという話は他に類を見ないため、長裕の素顔についてはまだまだ謎が包まれています。
長裕は『剣術と柔術は車の両輪』と教えていて、秘伝として気合術という特色ある技も伝えています。
道場では竹刀稽古が主流だった江戸時代末期において、木刀を使用した古風な剣術を教えていました。
そして長裕は江戸薬研堀にあったといわれる道場を拠点に、相模国高座郡や武蔵国八王子、五日市方面に「天然理心流」を普及させていきました。
その後、どのような経緯をたどって多摩地方で教授を行ったかは不明ですが、長裕以前にはこれらの地域で剣術を学んでいる者はほとんどいなかったとされています。
やがて長裕は出稽古先である南多摩郡加住村の門人を養子にし、近藤三助方昌を名乗らせて「天然理心流」の跡を継がせました。
3代目・近藤周助邦武、4代目・近藤勇昌宣など跡を継いでいった者たちはみな近藤姓を名乗っていますが、全員が門人の中から選ばれた養子であり、血縁関係はありません。
このような実力主義を唱えて流儀を託すという道統の継承方法からも「天然理心流」の武骨な一面を垣間見ることができます。
長裕は文化4年(1807)に江戸の薬研堀で死去しましたが、多摩地方で名主、豪農たちの心を掴んだ「天然理心流」はこの土地に深く浸透し、激動の幕末につながっていくのです。
おわりに
近藤長裕はこれまで紹介してきたような侍がこぞって学んだ江戸の名門道場の剣とは違い、いわゆる「庶民の剣」を振るった剣豪。
そのためか、長裕の逸話や伝説は極めて少ない。
もし、4代目の近藤勇が新選組として幕末に名を残してなかったら「田舎のチャンバラ剣術」として埋もれ、流派の名前さえも残っていなかったかもしれない。
しかし、そんな田舎で磨かれた実戦重視の剣術は幕末の動乱時に恐ろしいほどの活躍を見せてくれた。
サムライがなんだ!江戸の有名道場で学んだら強いのか?田舎とてなめんな!
天然理心流の強さは、そんな雑草魂から育まれたのかもしれません。
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