伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介【柳生十兵衛】日本最強は誰?流派は?

   

はじめに

伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。

日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【柳生十兵衛】です。

【柳生十兵衛】は時代劇に欠かせない有名人でありながら、謎が多すぎる伝説の剣豪です。

では【柳生十兵衛】について流派や出身地も含め簡単に説明します。

 

 

出典:https://www.nobuwiki.org/

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柳生十兵衛 

名前:柳生十兵衛三厳

流派:柳生新陰流

出身:大和国

年代:江戸時代初期(1607~1650)

 

柳生十兵衛は、将軍家兵法指南役・柳生宗矩の嫡男として祖父・柳生石舟斎が死去した翌年に柳生庄で生まれた。

十兵衛は祖父に似て兵法家としての資質に優れていたという。

しかしに十兵衛は「弱冠にして天資甚だ梟雄」と評されるほど、穏やかな性格の持ち主ではなかった。

13歳で3代将軍・徳川家光の近習になったものの、その性格が災いしてか20歳で家光の勘気に触れて職を解かれこととなった。

その後、十兵衛は小田原に謹慎したのちに柳生庄へ帰る。

十兵衛が著した『月之抄』には「先祖の跡をたずね、兵法の道を学ぶ」と記されるように、柳生庄では修行三昧の日々を送っていたものと考えられる。

また「なお諸州経歴なり」とも記されていることから、諸国を巡る武者修行の旅にも出たはずである。

 

11年後、十兵衛は江戸の柳生藩邸に滞在しながら、改めて父・宗矩の下で相伝を受けた。

これらをまとめた伝書を著して父に講評を仰ぐ十兵衛であったが、宗矩はこれを全て焼き捨てるように命じた。

驚いた十兵衛は父の友人であった禅僧・沢庵宗彭に相談し、沢庵から加筆と校正を施してもらった。

再度、伝書を提出した時は、宗矩も更なる精進を促すためとしながらもこれを認め、十兵衛にに印可を授けた。

その翌年の寛永15年(1638)、再び家光に出仕する事を許され、御書院番に任じられる。

十兵衛は弟の宗冬と、父の高弟であった木村助九郎の3人で、将軍の前で新陰流の兵法を披露し、寛永19年(1642年)には謹慎していた12年間で蓄積した資料をもとに、流祖・上泉伊勢守信綱以来の新陰流の術理をまとめた『月之抄』を著した。

 

 

出典:https://woman.infoseek.co.jp/

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その後、十兵衛は宗矩の死去に伴って家督を相続するも、わずか4年で役職を辞して柳生庄に帰る。

そして再び修行に明け暮れ、多くの門弟を抱えて新陰流の指導も行っていたが、慶安3年(1650)に鷹狩りの最中に44歳で急死した。

 

生涯のほとんどを修行に費やした十兵衛の逸話は多く残っている。

剣術で生計を立てる浪人に試合を挑まれた時、2度立ち合って双方相打ちとなった。

「どうだ?勝負は見えたか?」と聞いた十兵衛に対し、浪人は「二度とも相打ち」と答えた。

十兵衛は「この勝負が見分けられないようでは・・・・」と言うと、浪人は真剣での立合を所望する。

そして真剣で斬り結んだ十兵衛の剣は、浪人の肩先を斬って即死させていた。

一方、浪人の剣は十兵衛の着物だけを斬っただけに留まっており、この一寸一分の違いが生命の分かれ目、これが兵法の本質であると十兵衛は説いたという。

 

 

出典:https://www30.atwiki.jp/

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柳生十兵衛は隻眼の剣豪として描かれることが多いですが、若い頃に失明したという伝説があるだけで本当に隻眼であったかどうかは分かっていません。

名門に生まれて将軍家に仕えながらも、すぐに権力から遠ざかって修行に明け暮れた十兵衛の謎の多い生涯から生まれた伝説かと思われます。

様々な時代劇に登場して真偽不明な逸話を盛り込まれ、文字通りの「伝説の剣豪」となっていった十兵衛。

何者にも縛られないその生き方が、今も昔も人を惹きつけていることに間違いはありません。

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 - 伝説の剣豪