はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【柳生十兵衛】です。【柳生十兵衛】は時代劇に欠かせない有名人、剣豪一族の人物でありながら、謎が多すぎる伝説の剣豪です。それでは【柳生十兵衛】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
柳生十兵衛
名前:柳生十兵衛三厳
流派:柳生新陰流
出身:大和国
年代:江戸時代初期(1607~1650)
柳生の異端児
柳生十兵衛は将軍家兵法指南役・柳生宗矩の嫡男として柳生庄で生まれました。
誕生年は祖父・柳生石舟斎が死去した翌年にあたり、十兵衛は「生まれ変わり」ともてはやされるほど、祖父に似て兵法家としての資質に優れていたといいます。
しかし、十兵衛は「弱冠にして天資甚だ梟雄」と評されるほど、穏やかな性格の持ち主ではありませんでした。
13歳で3代将軍・徳川家光の近習になったものの、その性格が災いしてか20歳で家光の勘気に触れて職を解かれ、小田原で謹慎したのちに柳生庄へ帰郷。
その後の十兵衛は『月之抄』の「先祖の跡をたずね、兵法の道を学ぶ」とあるように、柳生庄では修行三昧の日々を送り、また「なお諸州経歴なり」とも記されていることから、諸国を巡る武者修行の旅にも出たと考えられます。
11年後、十兵衛は江戸の柳生藩邸に滞在しながら、改めて父・宗矩の下で相伝を受けました。
これらをまとめた伝書を著して父に講評を仰ぐ十兵衛でしたが、宗矩はこれを全て焼き捨てるように命じます。
驚いた十兵衛は父の友人であった禅僧・沢庵宗彭に相談し、沢庵から加筆と校正を施してもらいまいした。
再度、伝書を提出した時は宗矩も「更なる精進を促すため」としながらもこれを認め、十兵衛に印可を授けたといいます。
主君に仕えることが続かない男
印可を受けた翌年の寛永15年(1638)、十兵衛は再び家光に出仕する事を許され、御書院番に任じられました。
そして十兵衛は弟の宗冬と、父の高弟であった木村助九郎の3人で将軍の前で「新陰流」の兵法を披露し、寛永19年(1642年)には謹慎していた12年間で蓄積した資料をもとに、流祖・上泉伊勢守信綱以来の「新陰流」の術理をまとめた『月之抄』を著しました。
その後、十兵衛は宗矩の死去に伴って家督を相続しましたが、わずか4年で役職を辞して柳生庄に帰ってしまいます。
そして再び十兵衛は修行に明け暮れ、多くの門弟に「新陰流」を指導してましたが、慶安3年(1650)に鷹狩りの最中で急死してしまいました。享年44。
生涯のほとんどを修行に費やした十兵衛は、以下のような逸話も残しています。
剣術で生計を立てる浪人に試合を挑まれた十兵衛。
二人は2度立ち合って双方相打ちとなりました。
「どうだ?勝負は見えたか?」と聞く十兵衛に対し、浪人は「二度とも相打ち」と答えます。
しかし、十兵衛は「この勝負が見分けられないようでは・・・・」とぼやきました。
すると、カチンときた浪人は真剣での立合を所望。
そして真剣で斬り結んだ際、十兵衛の剣は浪人の肩先を斬って即死させていました。
一方、浪人の剣は十兵衛の着物だけを斬っただけに留まっており、この一寸一分の違いが生命の分かれ目、これが兵法の本質であると十兵衛は説いたといいます。
おわりに
柳生十兵衛は隻眼の剣豪として描かれることが多いですが、若い頃に失明したという伝説があるだけで本当に隻眼であったかどうかは分かっていません。
伝説の多くは名門に生まれて将軍家に仕えながらも、権力から遠ざかって修行に明け暮れた謎の多い生涯から生まれたのかと思われます。
様々な時代劇に登場して真偽不明な逸話を盛り込まれ、文字通りの「伝説の剣豪」となっていった十兵衛。
何者にも縛られないその生き方が、今も昔も人を惹きつけていることに間違いはありません。
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