はじめに
この記事ではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は「剣術の父」として名高く、関東や京に弟子を持った【念阿弥慈恩】です。のちに「新陰流」や「一刀流」など後世に発展していく剣術の源流をこの【念阿弥慈恩】が作っていました。それでは【念阿弥慈恩】について流派や出身地も含め簡単に説明します。
念阿弥慈恩
名前:念阿弥慈恩、相馬義元
流派:念流
出身:常陸国?
年代:鎌倉時代中期(1351~1448)
父の仇を討つため学んだ剣術
「念流」の元祖、念阿弥慈恩は元の名前を相馬四郎義元といいました。
父は相馬四郎左衛門忠重といい、新田義貞に属して戦功のあった武将であったといいます。
義元は5歳の時、父が殺されて幼いながらも追われる身となり、乳母に連れられてなんとか逃れていました。
何とか難を脱した義元は相模国藤沢で遊行上人の弟子となり、やがて『念阿弥』と呼ばれるようになります。※阿弥とは時宗の僧が称す号。
念阿弥は仏門にありながら、父の敵討ちを誓って京の鞍馬寺で異形の者に剣術を学んだといいます。
鞍馬寺は源義経が修行したことで知られていますが、この念阿弥が学んだ剣術も鬼一法眼より始まる京流の流れを汲む剣術でした。
さらに念阿弥は鎌倉において神僧より剣の秘伝を受け、一説によればここで『鹿島の太刀の秘伝』を受けたといいます。
その後、九州筑紫の安楽寺で修行を重ね、遂に剣の奥義を会得した念阿弥はついに父の仇を討つことを決意。
念阿弥は寺を後にして還俗し、仇敵を見つけだして見事に仇討ちを成功させました。
しかし、この時に念阿弥は世の無常を感じてしまい、名を慈恩と改めて禅門に入ることになりました。
多くの流派の祖となった慈恩
やがて慈恩は諸国を巡る旅に出て、行く先々で自ら学んだ剣術を伝えて門弟を増やしていきます。
慈恩には関東に8人、京に6人の『十四哲』と呼ばれる高弟がいたと伝えられています。
その中には「陰の流」を伝えた猿御前、「中条流」を伝えた中条判官、「馬庭念流」の祖の樋口太郎兼重の名前があります。
「陰の流」は「陰流」「新陰流」「柳生新陰流」などの多くの流派に派生し、「中条流」ものちに「富田流」として伝承されて「一刀流」をはじめとした多くの流派を生みました。
また、門弟の赤松三首座は慈恩の実の弟で「念首座流」を興し、江戸時代には桑名藩に「念首座流」、仙台藩に「首座流」として伝わっていきました。
一方、慈恩は晩年に自らを念大和尚と称し、信州伊那郡波合村に長福寺を建立して住職となっています。
おわりに
幼い頃より仏門に入り、父の仇を討つため剣術を学ぶ。そして、父の仇を討った瞬間、胸の中に去来するのは、この世の無常。そしてまた仏門に・・・・。
煩悩の塊のような念阿弥慈恩。この人間臭さがイイです。
こんな人なのに上の画像のように美男子に描けるのはなぜ??もっとムサ苦しい髭モジャのイメージでよくないか?
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