はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【足利義輝】です。【足利義輝】は室町幕府の将軍というご立派な身分にありながら、剣豪として壮絶な最期を迎える人物です。それでは【足利義輝】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
足利義輝
名前:足利義輝
流派:鹿島新當流、新陰流
出身:山城国
年代:戦国時代(1536~1565)
将軍就任と剣の道
足利義輝は室町幕府12代将軍・足利義晴の子として生まれ、11歳のときに将軍職を譲られました。
この頃、畿内では細川家臣・三好長慶が権勢を振るっており、将軍は有名無実の傀儡ような存在です。
しかし、成長した義輝はこれをよしとせず、足利幕府再興、将軍権威の復活を目指して諸国の戦国大名との修好に力を入れていきました。
さらに義輝は、このような状況の中で剣の道に目覚め、自らの鍛錬を重ねていきます。
塚原卜伝、上泉伊勢守から学ぶ剣豪将軍
この頃、幕府との結びつきの強かった伊勢国の北畠具教のもとには、様々な武芸者が集まっていました。
そんな中、武芸者の中でも超有名人だった塚原卜伝が、義輝のために剣を教えに京へ来てくれることになります。
手を合わせることすら難しいとさえいわれていた塚原卜伝を招いたことで義輝の才能は大きく花開きました。
剣術に没頭した義輝は3か月間も指導を受け、ついに鹿島新當流秘伝『一之太刀』を授けられました。
塚原卜伝も義輝の剣に対し「義輝公の太刀筋、豪達にして優美、惜しむべきはその御身なり」とまで言っています。
次に義輝は柳生石舟斎宗厳のところに身を寄せていた「新陰流」の上泉伊勢守信綱を京に招きました。
上泉信綱はのちに「タイ捨流」を開いた丸目蔵人と共に義輝の前で演武を見せ、「新陰流」の剣を手とり足とり教えてくれたといいます。
また、義輝も一つ一つの技を丁寧に教える姿に感じ入り、上泉信綱を『兵法新陰流軍法軍配天下第一』と称賛したといいます。
壮絶な最期
義輝の剣術が磨かれていった一方で、畿内の情勢は大きな動きを見せていました。
三好長慶亡き後、傀儡としての将軍を擁立しようとする松永久秀と三好三人衆にとって将軍権威の再興に目指す義輝は非常に邪魔な存在です。
このため三好三人衆は清水寺参詣を名目にして軍勢を集め、義輝のいる二条御所に押し寄せました。
この時、義輝は円を描くように十数本の名刀を畳に突き立てて、綿の帷子、黒の袴といういでたちで応戦します。
塚原卜伝、上泉信綱から直接手ほどきを受けていた義輝は、攻め寄せる敵を次から次へと斬り伏せ、刀が血と脂で斬れなくなると、次々に新しい刀に取り替えて相手を斬り倒しました。
近づくことさえ許さない義輝には矢が射かけられますが、それすら叩き落とすほどの奮戦ぶり。
しかし、最後は畳で四方を取り囲まれて押さえつけられ、その上から突き刺されて絶命してしまいました。
有名な辞世は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」享年30歳。
おわりに
将軍の位が有名無実化する中で、もう一度権威を取り戻そうと逆境に立ち向かう精神から剣の道に目覚めた義輝。
わずか3ヶ月で「鹿島新當流」を極めたってことは、気持ちだけでなく、傑出した剣の才能を持っていたからなんでしょう。
最後は「正宗」、「信国」といった名刀を惜しげもなくブンブン振り回して敵をぶった斬る将軍さま。
その壮絶な最期は正に武家の棟梁たる「将軍」の名にふさわしいものだと思います。
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