はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【疋田豊五郎】です。【疋田豊五郎】は「剣聖」として名高い上泉伊勢守信綱の甥っ子で、のちに自分の流派を打ち立てた伝説の剣豪です。それでは【疋田豊五郎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
疋田豊五郎
名前:疋田豊五郎景兼
流派:疋田陰流
出身:加賀国
年代:戦国時代~江戸時代初期(1537~1606)
上泉伊勢守の甥っ子
疋田豊五郎は加賀国石川郡の疋田主膳景範の次男として生まれました。
母が新陰流創始者・上泉伊勢守信綱の姉であり、信綱とは叔父、甥の関係だったといわれています。
豊五郎は上泉門下の古参として神後伊豆と双璧を成す高弟となり、上野国箕輪城の落城後に信綱が武田信玄の誘いを断って修行の旅に出かけた時も同行しています。
そして信綱が各国で試合を行う際は、常にこの豊五郎が真っ先に立ち会っていました。
豊五郎は立会いの時はいつも「その構えは悪しうござる」と声をかけてから打ち込んでいたといいます。
匹夫の剣
信綱と共に訪れた大和国柳生の里では、当時『畿内随一』との評判が高かった柳生宗厳から試合を挑まれ、豊五郎も立ち合って散々に討ち負かしました。
この敗北で宗厳は己の未熟さを悟り、即座に信綱に弟子入りすることになります。
一方、豊五郎は「これからは一人で諸国を巡り、自らの兵法を打ち立てよ」と信綱から進言され、その後は単身修行の旅に出ることになりました。
その後、「疋田流」の名をひっさげて諸国を廻るうち、豊五郎は時の関白・豊臣秀次の下で剣術指南をすることになります。
この時、秀次のもとには富田政景門下の「富田流」長谷川六左衛門宗喜がいました。
秀次は二人の立ち会いが見たいと所望しましたが、豊五郎はこの提案を断り試合には応じませんでした。
様子を見ていた近習の者達は、豊五郎のことを卑怯だと噂し合いましたが、当の豊五郎は「卑怯というならば、それでもよい。龍虎が相討つときは、必ず一方が傷つくもの。剣術は遊びでなく、軽々しく命を懸けて試合するわけにはいかない。」と全く気にもかけなかったといいます。
晩年、豊五郎は細川藩に仕え、自らの修行の集大成として『廻国記』を著して細川藤孝(幽斎)に上程。
自らは『栖雲斎』と号して大坂城に移り、しばらくして亡くなったといいます。
また、豊五郎は徳川家康の前でも演武しましたが、家康はその剣技を『匹夫の剣』と評して入門せず、柳生石舟斎に入門したという話もありますが、これは柳生家を持ち上げるために創作されたものとも言われています。
おわりに
自分の評価など気にせず、簡単に立ち合いに応じない姿は、さすが剣聖・上泉伊勢守信綱の一番弟子。
疋田豊五郎にとっては、「○○より強い」とか『天下一の兵法』とかいう安っぽい肩書なんて全く興味なかったんでしょう。
己の剣の探求のみに生きる疋田豊五郎のような人物を、本当の剣豪と呼ぶのかもしれません。
剣豪名をクリックすると個別の剣豪紹介記事が見れます↓