はじめに
この記事ではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【桃井春蔵】です。【桃井春蔵】は「品格」を評価された江戸三大道場の一つ『士学館』を栄えさせた伝説の剣豪です。それでは【桃井春蔵】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
桃井春蔵
名前:桃井春蔵直正
流派:鏡新明智流
出身:上野国
年代:江戸時代末期~明治(1825~1885)
浮き沈みの激しい士学館
桃井春蔵は元の名を田中甚助といい、沼津藩士・田中豊秋の次男として生まれました。
「直心影流剣術」を学んだ後、江戸へ出て14歳で「鏡新明智流」の道場・士学館に入門した甚助は剣技が端正にして美しく、絵に描いたような美剣士だったといいます。
そして剣の才能を見込まれた甚助は士学館3代目・桃井春蔵直雄の婿養子となり、27歳の時に士学館4代目・桃井春蔵の名を継ぎました。
門弟が多く隆盛を誇っていた士学館でしたが、3代目までは「剣豪」と呼ばれるような実力者は輩出できないでいました。
初代・桃井八郎左衛門は「柳生流」「戸田流」」「堀内流」「一刀流」を学び、「鏡新明智流」と称して江戸に道場を開いて「勝つことを知らないが負けない剣法である。月謝が払えないものは無料で教える」という宣伝文句で門弟を多く集めました。
しかし、他流派から目を付けられて次々に試合を要求され、八郎左衛門は仮病を使って断り続けたために江戸中に悪評が広まり、張り紙して嘲笑う者も出たといいます。
2代目の時も相変わらず他流派からの嫌がらせが続いていましたが、これに同情する人々が入門し、竹刀打ち中心の稽古が好評を得て門人が増加。
しかし、3代目・直雄の時に弟子の取り合い等で緊張関係にあった練兵館と試合をすることになり、立会人の千葉周作のもとで大惨敗を喫し、再び士学館は苦難の時を迎えます。
そんな中、4代目・桃井春蔵が就任して救世主として活躍していくことになるのです。
幕臣から新政府へ
凛とした気品と風格を兼ね備えた春蔵の剣は「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評価され、士学館道場は大いに栄え始めました。
春蔵の真骨頂は刀を抜かずに相手に勝つことにあり、物静かな態度と気合いで相手を圧して場を収めていました。
安政3年(1856)、評判を聞きつけた土佐藩士・武市半平太が岡田以蔵らを連れて士学館に入門。
すると春蔵は武市半平太の腕と人格を高く評価して塾頭に任じ、自らは幕臣に取り立てられて講武所で剣術を教授していきました。
ちなみに、のちに幕末の人斬りとして恐れられた岡田以蔵は、春蔵と立合った時に軽くいなされて「心が空になっている。力ばかりでは駄目だ」と諭されています。
幕臣となり、ますます剣名を上げた春蔵は幕府軍の遊撃隊頭取並に任じられ、慶応3年(1867)に将軍・徳川慶喜の警護役として京都に同行しました。
この時、春蔵は戊辰戦争の開戦に反対して幕府軍を勝手に離脱します。
このため幕府軍人から命を狙われることになりましたが、やがて幕府は鳥羽・伏見の戦いで敗れると手のひらを返し、改めて春蔵に彰義隊への参加を要請しました。
しかし、この頃すでに見切りをつけていた春蔵は幕府の誘いを断ります。
そして逆に官軍からの要請で大坂に道場を建て、治安維持にあたっていた薩長軍の兵に剣を指導しました。
明治維新後、大阪府が設置されると治安維持のために浪花隊(浪華隊)が結成されますが、ここでも春蔵は浪花隊の監軍兼撃剣師範に就任して事実上の隊長となって隊を率いました。
やがて浪花隊が解散すると春蔵は神官になって応神天皇陵・仲姫皇后陵の陵掌を務め、誉田八幡宮の境内に道場を建てて撃剣や儒学を教授。
晩年は神官として静かな生活を送り、明治18年(1885)にコレラで死去しました。
品格がウリだった春蔵ですが、大坂では強盗3人を川に投げ込んだり、狩猟中に誤って天皇陵に発砲した大阪府知事を怒鳴りつけるなど豪快な話も残しています。
おわりに
桃井春蔵の士学館は、斎藤弥九郎の練兵館、千葉周作の玄武館と並んで江戸の三大道場の一つとされ、有名になった道場。
しかし、その剣技はどのようなものであったかハッキリせず、「品格」というよく分からない所で評価されています。
晩年は大坂に拠点を移して神職に転職してしまった春蔵は、もしかしたら「強さ」についてはそれほど執着がなかったのかもしれません。
それでも岡田以蔵を簡単にあしらっていることから「剣豪」としてある程度の強さを持っていたとは思いますが。
でも、代名詞である「品格」は以蔵には全然伝わってないんだよな。
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