はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【本間三郎】です。【本間三郎】は古流「念流」を引き継いでいた本間家に生まれ、明治時代に警視庁撃剣世話掛(剣術指南役)をことごとく破って、警視庁を震撼させた伝説の剣豪です。それでは【本間三郎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
本間三郎
名前:本間三郎
流派:本間念流
出身:上野国
年代:江戸時代末期~昭和(1859~1928)
本間念流
本間三郎は安政6年(1859)、上野国佐波郡赤堀村で家伝として「本間念流」を伝える本間千五郎の三男として生まれました。
元々、農民であった本間家は「浅山一伝流」剣術を家伝として伝えていましたが、江戸時代中期に本間仙五郎が貧窮の中で大山志磨之助から「荒木流」を学び、皆伝を得たのちに「馬庭念流」を学んで永代免許を授けられたといいます。
この仙五郎の努力で本間家は養蚕や金融業も行うような豪農に成長し、やがて道場『練武館』が赤堀村に開かれました。
仙五郎の死後、流儀は長男の応吉が継承し、本間家が伝える剣術は「本間念流」として家業の傍らで伝えていくことになりました。
この応吉の時代、新進気鋭の千葉周作が分かりやすい剣術「北辰一刀流」で好評を得て「馬庭念流」からも多くの弟子が流派を変えました。
そして、千葉周作が伊香保神社に奉納額を掲げようとしたことで「馬庭念流」側は激怒し、これを阻止するため襲撃事件にまで発展します。
この事件は千葉周作が計画を知って奉納を諦めたことで収束しましたが、父に永代免許を授けた「馬庭念流」に恩義を感じていた応吉は襲撃に加勢していたといわれています。
警視庁を震撼させた男
三郎は仙五郎から数えて7代目にあたり、幼少期から「本間念流」を学んでいました。
また明治時代には榊原健吉が撃剣興行で前橋を訪れ、三郎はその後に榊原道場に入門し、『春風館』の山岡鉄舟にも師事して腕を磨きました。
「念流」系統は古い伝統を伝える剣術とされながらも、流行りの竹刀稽古の剣士たちを圧倒する強さを発揮していたといい、三郎は明治25年(1892)に群馬県での試合で警視庁の撃剣世話掛であった内藤高治を破ります。
ちなみに内藤高治の流派は「北辰一刀流」であり、本間家や「馬庭念流」にとっては因縁の相手ですが、二人は榊原道場で共に学んだ同僚でもありました。
そして翌年、三郎は警視庁が誇る撃剣世話掛たちに試合を挑み、「北辰一刀流」の門奈正と内藤高治、「直心影流」の得能関四郎、「鞍馬流」柴田衛守ほか名だたる警視庁の剣豪をことごとく破りました。
唯一、三郎に勝ったのは再試合で対戦した門奈正のみでした。
こののち三郎は政治家となり、大正4年(1915)から衆議院議員に3期連続で当選して昭和3年(1928)に死去しました。
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