はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【山本勘助】です。【山本勘助】は大河ドラマの主人公にもなり、武田信玄の軍師として有名ですが、実は若い頃は仕官のために必死に腕を磨いた剣豪だったよう。それでは【山本勘助】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
山本勘助
名前:山本勘助
流派:京流
出身:?
年代:戦国時代(1493~1561)
西国修行の旅
山本勘助は実在したのか、架空だったのかが長く議論されてきた人物でした。
しかし最近になり、古文書からその実在がほぼ証明されました。
ただ、その存在が確認されたにしても勘助の半生は未だに謎に満ちています。
駿河か三河で生まれたという勘助は若い頃に摩利支天像を懐に入れ、武者修行に出かけていました。
高野山から四国、九州、中国へと周り、尼子家や毛利家にも仕えたことがあるといいます。
大河ドラマでも、片目で足を引きずる姿が印象的ですが、なぜそうなったかは分かりません。
ただ、10年後に養家の大林家に戻ったときには、すでにそのような姿だったといいます。
おそらく西国武者修行中に何らかの事件に遭ったのでしょう。
運命の主君と川中島の戦い
故郷に戻ってきた勘助は姓を「山本」に戻し、仕官の道を探し始めました。
しかし、勘助の仕官はなかなか厳しく、北条家の剣術指南役・杉田七郎左衛門に依頼するも断られ、地元の駿河・今川家には風体をバカにされ全く取り合ってくれません。
そんな中、勘助は運命の主君と出会いました。
それが甲斐の武田晴信、のちの武田信玄。
風体を気にしない信玄に重宝された勘助は、これまで命を捧げてきた剣術ではなく、知略、軍略を持って大活躍。
勘助は若い頃より諸国を旅した中で知識が蓄積されていたため、特に築城術や戦法に優れていたといわれます。
その後、信濃を制圧した信玄は、越後の雄・上杉謙信と対立するようになります。
そして永禄4年(1561年)、謙信は川中島に出陣して妻女山に入り、海津城を脅かしました。
すると信玄もすぐに海津城に入って、戦局は膠着状態に。
ここで勘助と馬場信春は謙信を打ち破る作戦を立案します。
それは軍勢を二手に分け、別働隊を夜の闇に乗じて妻女山へ接近させて夜明けと共に攻め、上杉軍を妻女山から下ろして平地に布陣した本隊と挟撃するもの。
啄木鳥(キツツキ)がくちばしで木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ食べることに似ているため、のちに「啄木鳥戦法」と名づけられました。
しかし、勘助以上の軍略の天才・上杉謙信はこの策を見抜いています。
早朝、本隊で待ち受けていた勘助が見たものは、突如として現れた上杉軍でした。
車懸りの陣で次々と襲ってくる見事な攻勢に、勘助は思わず見とれてしまったといいます。
みるみるうちに陣形が崩壊していく武田軍でしたが、妻女山に向かっていた別動隊が到着するまでの間、必死に攻勢に耐えていました。
しかし、勘助は自責の念に駆られたのか、わずかな手勢を率いて自殺行為とも等しい突撃を敢行。
剣豪の名にふさわしく奮戦して13騎を倒しますが、やがて力尽き討ち取られてしまいました。
ちなみに当てずっぽうな意味で使う「ヤマカン」は、山本勘助の名が由来しているとも言われています。
おわりに
軍師としてのエピソードが多く語られることが多く、剣豪としてのエピソードは全くない山本勘助ですが、ある意味それこそ「伝説」の剣豪。
片目、片足が不自由になるほど激しい立ち合いを行っていたと感心してしまいそうですが、他の「伝説の剣豪」たちは余り傷を負うことはしていないので、そこそこの腕前だったのかも・・・
やはり、この人は剣豪よりも軍師として語られるべき人物なのかもしれません。
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