はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【男谷精一郎】です。【男谷精一郎】は江戸時代末期に現れた「剣聖」とも呼ぶべき大きな器を持ち、優しい剣を振るう伝説の剣豪です。それでは【男谷精一郎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
男谷精一郎
名前:男谷精一郎
流派:直心影流
出身:江戸
年代:江戸時代末期(1798~1864)
商人の家系から
男谷精一郎は寛政10年(1798)に旗本・男谷家の別家・男谷新次郎信連の子として生まれました。
この男谷家は三河以来の武家ではなく、曾祖父・男谷検校が貧農から金貸しになってのし上がり、御家人の株を買ったという富豪の家でした。
幼い頃の精一郎は生粋の御家人たちから差別を受けていましたが、それにもへこたれずに8歳から「直心影流」の団野真帆斎に入門して剣術修行に励み、親戚筋にあたる平山行蔵から軍学、他にも「吉田流」の弓、「宝蔵院流」の槍など様々な兵学を学んでいきました。
特に海防の重要性を説く『海防問答』を著した平山行蔵は、のちの精一郎の人生に大きな影響を与えることになっていきます。
さらに精一郎は20歳の時に本家の男谷彦四郎の婿養子となって男谷本家を継ぐと、義父の影響も受けて読書も好むようになり、剣術一筋に陥ることなく広い視野を保つことを心掛けていきました。
温厚で知られる精一郎ですが、若い頃は団野真帆斎のもとで同門だった親戚筋の勝小吉(勝海舟の父)にそそのかされて道場破りを重ね、ケンカ目的に大立ち回りを演じたこともあったといいます。
来るもの拒まず
ある日、平山行蔵の門人で精一郎にとって先輩にあたる妻木弁之進が団野道場に乗り込んできて、精一郎に真剣勝負を申し込みました。
精一郎は小刀を手にして立ち合いますが、実力伯仲の二人はなかなか決着せず、勝負は師の団野真帆斎によって引き分けとされてしまいます。
試合後、自分の襦袢が4寸も斬られていることに気づいた妻木弁之進は「もし、男谷が小刀を使っていなかったら死んでいただろう」と言うと、精一郎は「命拾いしたのは私の方です」と言って、鍔に1寸の割れ目が入っているのを見せたといいます。
団野道場を代表し、ヒリヒリするような試合にも応じてきた精一郎は、やがて「直心影流」印可を受けて「男谷流」を称し、麻布に道場を開くようになります。
他流試合を禁じる流派が多い中、精一郎は「他流試合こそ真の稽古となる」という考えを持ち、積極的に他流試合を薦めていました。
道場での精一郎は開放的な人物で、自分に厳しく他者を決して批判したりせず、早朝に起床して質素な着衣に着替えて掃除を行い、弟子たちが起きたころにはすでに弓術の鍛錬をしていたといいます。
また、精一郎は申し込まれた試合は一度も拒むことはなく、江戸で立ち合わなかった者はいないとまでいわれています。
弟子・島田虎之介
ある時、『名人』と評判になっていた精一郎の男谷道場に豊前中津藩士・島田虎之助が現れました。
虎之助は幼い頃より地元で『剣術の天才』ともてはやされていましたが、九州各地での修行に飽き足らず、江戸までやってきた男でした。
この虎之助が己の腕を試そうと精一郎に指南を頼むと、精一郎はいつものように簡単に了承します。
虎之助は立合ってみると、『名人』と言われる精一郎の剣の凄みが感じられず、3本中1本は簡単に取れてしまいます。
しかも、精一郎の2本はかする程度のもので、逆に虎之助の1本はクリーンヒット。
江戸の『名人』の技量はこんなものかとガッカリした虎之助は、早々に男谷道場を立ち去って次に井上伝兵衛の道場を訪ねました。
ここで伝兵衛に打ち据えられた虎之助は「伝兵衛こそ日本一の剣豪」と感嘆し、すぐに弟子入りを志願します。
しかし、伝兵衛は「江戸には他にも優れた剣士がいる。中でも随一の剣士は男谷精一郎だ」と言いきります。
虎之助は「そんなはずはない」と、先程の精一郎との試合の中身を細かく伝えると、伝兵衛は「そうであろう。おぬしのメンツを尊重されたのだよ」と答えました。
さらに伝兵衛は「本当の男谷精一郎と立ち合いたいなら、私が添え状を書こう。さぁ行ってきなさい」と告げます。
どうにも腑に落ちない虎之助は伝兵衛の添え状を持ち、再び男谷道場を訪れて精一郎にそれを渡しました。
一読した精一郎は再び立ち合うことを了承し笑顔で道場に立ちますが、今回の精一郎の威圧感は先程のものとは全く別人でした。
虎之助は何も出来ず、気づいたころには道場の隅に追いやられ、全身から冷や汗が噴き出していたといいます。
これで目が覚めた虎之助は平伏して弟子入りを志願し、精一郎も他流を学ぶ絶好の機会として、虎之助を客分として迎え入れることにしました。
やがて、この虎之助は精一郎の高弟として世に知られる『剣豪』になっていきます。
このように精一郎は試合でどんな相手でも三本のうち一本は相手に花を持たせましたが、どんな強敵でもその一本以上は取ることができなかったといいます。
その後
精一郎の義父であった彦四郎は幕府の祐筆を務めるなど学問に明るかったため、精一郎もまたその家風を引き継いで学問にも才能を見せていました。
これが時の老中・水野忠邦に評価されると、精一郎は水野家の指南役を依頼され、その繋がりから精一郎は『国防』についての意見書を幕府に提出することになります。
この意見書がもとで築地に幕臣の武芸訓練機関である『講武所』が設立され、頭取には精一郎が選ばれました。
『講武所』の剣術稽古では精一郎は形稽古を廃して竹刀試合を主とし、それまで明確でなかった竹刀の長さを3尺8寸に定めました。
この規定が明治以降の剣術にも受け継がれ、現代の剣道に大きな影響を与えています。
精一郎は傲慢な態度をとらない温厚な人格者としても知られ、応対は親切丁寧で高ぶるところがなく、『君子の剣』と称されていました。
おわりに
男谷精一郎の話から伝わってくるのは、真面目で優しいこれまでにない「剣豪」の姿。
成り上がりの家に生まれた処世術なのか、恨みを買わないように試合をした相手には必ず花を持たせる。
一見、情けないように見えるけれども、本当の実力は計り知れず「伝説の剣豪」として、今もなおその名を轟かしています。
学問や読書も好んだ男谷精一郎にとって、剣とは人生の全てではなく、人生の一部に過ぎなかったのでは?
きっとこの人は何をやっても超一流のことが出来てしまう人物なんじゃないかな。
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