はじめに
この記事ではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【高木馬之輔】です。【高木馬之輔】は体格や力に頼った武術から脱却し、老若男女の誰もが使える武術を開発した伝説の剣豪です。それでは【高木馬之輔】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
高木馬之輔
名前:高木馬之輔重貞
流派:高木流
出身:美作国
年代:江戸時代中期(1656~1716)
柔よく剛を制される
高木馬之輔は明暦2年(1656)に津山藩士として生まれ、幼少の頃から武術修行に熱中して柔術を中心に棒、槍、薙刀などを学んでいました。
中には「鉄板投術」と呼ばれた手裏剣の類まで学んだといわれ、馬之輔はありとあらゆる武芸に興味があったようです。
ちなみに馬之輔の身長は六尺八寸(206cm)という巨体であったといわれています。
馬之輔は16歳になった寛文10年(1670)、高木流初代の高木折右衛門より極意を受けたと同時に養子に入り、高木馬之輔を名乗りました。
厳しい修行と体格を生かした怪力で自信満々だった馬之輔に、大きな転機が訪れたのは竹内流3代目宗家・竹内久吉との立合いでした。
津山藩主・森忠政の御前で行われた試合は、体格に劣っている竹内久吉の一方的な勝利。
竹内久吉は身長四尺八寸(145cm)と伝わっています。
馬之輔は2度立ち合いを願って2度とも敗れ、3度目は立ち合いにも応じてもらえませんでした。
この試合で自分の実力と慢心を知った馬之輔は竹内久吉に詫びて入門を志願し、「竹内流」を学ぶことになりました。
覚醒した馬之輔
その後、無事に「竹内流」の免許皆伝を受けた馬之輔は「高木流体術腰廻」と称して、自ら流派に工夫を加えて後輩の育成にあたりました。
さらに晩年、自らの経験から体力に頼る武術を反省していた馬之輔は「力をもって争う者は、その力を脱して止む。力をもってせず、老若婦女といえども勝利を得る術あるべし」と語り、この理想に近づくべく工夫を重ねていきました。
しかし、数年間の修行を行っても納得する術を得ることができなかったため、馬之輔は意を決して氏神に参籠して術の完成を祈願しました。
そして籠ること100日、ついに神示「楊(やなぎ)の枝に雪を戴ける」を受けた馬之輔は、これをもとにして術の工夫を重ねて理想の武術を完成させたといいます。
「本體楊心流高木流柔術」と称した馬之輔は、元禄6年(1693)に近衛家より武士の『頭領宗家侑門院別当力士』の称号を受け、享保元年(1716)に61歳で没しました。
称号を受けた時、馬之輔は百五十貫目(450kg)の重りを持ち上げたというと伝説が残っています。
おわりに
最後の最後は神頼みという、昔の「剣豪」がよく行っていた常套手段で覚醒した高木馬之輔。
いつの時代になっても、「剣豪」って伝説ってやつが欲しいんです。
でも、馬之輔が編み出した術は力で押し切る武術ではなく、楊のしなやかさからヒントを得た老若男女が使える武術。
平和な時代に合わせた武術が、のちのちまで与えた影響は大きいと思います。
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