はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【辻月丹】です。【辻月丹】は戦国の気風が残る江戸前期、幕末が迫る江戸後期の狭間にあり江戸中期において剣と禅を極めた「江戸の剣聖」とも呼ぶべき伝説の剣豪です。それでは【辻月丹】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
辻月丹
名前:辻月丹、辻兵内、辻資茂
流派:無外流、山口流
出身:近江国
年代:江戸時代中期(1649~1727)
山口流・辻兵内
辻月丹は慶安2年(1649)に近江国甲賀に生まれました。幼名は兵内といいます。
13歳で京都に上った兵内は山口卜真斎家利の元で剣術を学び、26歳の時に「山口流」の免許皆伝になったといいます。
師の山口卜真斎は常陸国鹿島に生まれ、天流、鞍馬流、タイ捨流、神当流、富田流、神道流などの諸流を学んだのち、各地で兵法勝負を繰り返すうちに京都に留まる事になり、元和6年(1620)に自宅の庭で異人の童子が呪文を唱えながら二刀を振っているのを見て「山口流」を興したといわれています。
このため「山口流」は二刀流の流儀として始まり、兵内にも受け継がれていきました。
免許皆伝後、甲賀に戻った兵内は山籠もりなどの厳しい修行を重ね、やがて江戸に出て麹町に「山口流」の道場を開きました。
しかし、無名の「山口流」や田舎者の兵法者は江戸の武士に相手にされず、兵内はわずかな弟子と稽古していたといいます。
そんな中でも兵内は「自鏡流」の流祖である多賀自鏡軒盛政に居合を学び、自身の剣に磨きをかけていきました。
居合も極めた兵内の剣はすさまじく、山口卜真斉が江戸を訪れた34歳の時には求めに応じて居合を披露して灯明の火を抜刀で3回消して師を驚かせたといわれます。
また、兵内は技や力だけの剣術ではなく、心の修行も必要として麻布にある吸江寺の石潭禅師に師事して禅と中国の古典を学びました。
そして兵内は45歳の時に悟りを開き、第二世の神州和尚から亡き師・石潭禅師の名で偈を授けられました。
※「偈(げ)」とは禅僧などが悟りの境地を韻文の体裁で述べたもの。
石潭禅師の偈
無外流・辻月丹
元禄6年(1693)、悟りを開いた兵内は名を『月丹資茂』とし、流派名を偈よりとって「無外流」としました。
こうして一介の田舎兵法者に過ぎなかった辻兵内は、長年の参禅によって悟りを開いた剣客・辻月丹として有名になり、吸江寺を訪れる大名と対等に語る事ができるようになりました。
そして月丹の元に厩橋藩主・酒井忠挙、土佐藩主・山内豊昌らが弟子入りしたことでさらに剣名が高まり、弟子の数は大名家32家、直参156人、陪臣930人にのぼったといいます。
ますます有名人となった月丹には多くの大名家から師範役として迎えたいとの申し出がありましたが、月丹自身はこれらを全て断り、代わりに甥で「無外流」第2代となった辻右平太を厩橋藩・酒井家に、養子で「無外流」第3代となる都治(辻)記摩多資英を土佐藩・山内家の師範役に推挙しました。
その後、月丹は61歳の時に酒井忠挙の取り計らいで5代将軍・綱吉に謁見することになりましたが、これは綱吉の死去により実現しませんでした。
月丹は剣と禅は「一如(仏語で絶対的に同一である真実の姿)」であるとし、弟子達にも禅を学ばせ、理解できたものにしか免許を授けませんでした。
そして享保12年(1727)、 禅学の師であった石潭禅師の命日と同じ日、月丹は座禅を組み死去したといいます。享年79。
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