はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【白井亨】です。【白井亨】は伝説の技「八寸の延金」を復活させ、「老い=弱さ」を克服するため修行を重ねた伝説の剣豪です。それでは【白井亨】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
白井亨
名前:白井亨
流派:天真流
出身:江戸
年代:江戸時代後期(1783~1843)
三羽烏と八寸の延金
白井亨は天明3年(1783年)に江戸の町人・大野家で生まれました。
母方の祖父である信州中野の郷士・白井彦兵衛の養子となった亨は、8歳のときに祖父を亡くし、遺言によって「機迅流」の依田新八郎秀復のもとへ入門させられました。
ここで亨は非常に重い竹刀を振って人一倍稽古に励み、14歳の頃には道場随一の腕前となっていきます。
しかし、腕は一流でも師との折り合いが悪かった亨は、なかなか印可がもらえませんでした。
これを不満に思った亨はあっさりと「機迅流」に見切りをつけ、江戸で名高い「一刀流」の中西道場・中西子啓のもとへ入門します。
当時の中西道場には師範代で『音無しの剣』を振るった高柳又四郎、形稽古にこだわりながらも試合を行えば無敵だった寺田宗有、さらに浅利又七郎、千葉周作など名だたる剣豪が揃っていました。
その中で亨は形稽古を寺田宗有、竹刀稽古を高柳又四郎から学んで天賦の才を開花させ、やがて二人と並んで中西道場の「三羽烏」と呼ばれるようになっていきました。
享和元年(1801)、師の子啓が没すると亨は道場を去って諸国武者修行の旅に出ます。
この武者修行の間に、亨は失われていた小笠原源信斎長治の伝説の技『八寸の延金』を自己流で編み出し、「神道無念流」の岡田十松の道場や「馬庭念流」の道場などで数々の試合を行って名声を上げていきます。
そして亨は岡山藩で優遇されて道場を構え、剣術指南となって300人の門弟を抱える大道場主となりました。
寺田宗有から教わる「剣」の道
文化8年(1811)、母の病の知らせもあって江戸に戻った亨。
亨は共に腕を磨いた中西道場の同門達を尋ねて回りましたが、皆の剣の衰えように落胆することになりました。
「老いる=強さを失う」に納得がいかなかった亨は、この悩みを中西道場の兄弟子で「天真一刀流」を開いていた寺田宗有に打ち明けて試合を行いました。
すると、亨は63歳の宗有の前にして一歩も動くことができず敗北してしまいます。
亨は「剣」の恐ろしさを感じながらも、年齢を重ねても衰えない世界を知って歓喜したといいます。
その場で弟子入りを志願した亨ですが、ここで宗有からは苦言を呈されてしまいます。
「これまでお前は20年以上にわたって邪道の剣を使ってきた。一からやり直すには悟道の道に求めるしかない。」
それからの亨は徹底して水行を行い、精神面を鍛錬しながら宗有から剣を学んでいきました。
5年後、天真一刀流二代目を引き継いだときには、亨は青年の頃とは全く違う円熟した剣を振るったといいます。
天保3年(1832年)、大石進が江戸の各道場にて他流試合を挑み、江戸の剣豪たちを総なめにしていたとき、千葉周作が引き分けに持ち込んだ他、唯一これを破ったのは亨だけでした。
この時、大石進が巨体を生かして5尺3寸の長竹刀を使用していたの対し、亨は2尺以下の短い竹刀を使用したといいます。
天保14年(1843)、亨は江戸で死去しましたが「天真伝兵法」は富山藩士・吉田有恒が生前に継承し、富山藩に伝わっていきました。
おわりに
若い頃は師匠に恵まれませんでしたが、最終的には自分の剣の道を悟らせてくれた寺田宗有に出会うことができた白井亨。
二人は中西道場で共に修行していた間柄ですが、この時の白井亨には宗有の剣の理を感じることができなかったのでしょう。
のちに白井亨が一時期悩むことになる「老いる=強さがなくなる?」の答えはすぐ近くにあったのに。
でも、のちに63歳の宗有を目の前にして一歩も動けなかったというのは、相手の強さ、自分の弱さが打ち込む前に感じることができたということ。
遠回りしながらも剣を極めた白井亨は現状に満足することなく、常に「剣」と真摯に向き合うことのできた努力の天才剣豪なのではないでしょうか。
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