はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【田宮平兵衛】です。【田宮平兵衛】は現在にも伝わる「田宮流」の創始者で『美の田宮』と称賛された居合を使う伝説の剣豪です。それでは【田宮平兵衛】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
田宮平兵衛
名前:田宮平兵衛重正
流派:田宮流
出身:?
年代:戦国時代(?~?)
田宮流のスパルタ教育
田宮平兵衛は名を重正だけでなく茂政、業正、茂正と様々な名を持ち、一説によれば関東に生まれたといわれていますが、生没年、出身地とも正確には分かっていません。
平兵衛は東下野守元治に「夢想流」を学んだ後、居合の林崎甚助から学んで「神夢想林崎流」を修めたといいます。
その後、諸国を渡り歩いて武者修行を行い、工夫を重ねて居合術に磨きをかけていった平兵衛。
居合の使い手にも関わらず平兵衛は長柄の剣を使用していたようで、「手に合うならば、刀の柄は長い方が有利である」と主張しています。
平兵衛の技は嫡子・田宮対馬守長勝に受け継がれ「田宮流」が名乗られています。
自ら初代を名乗った長勝ですが、家伝の居合を学び出した頃は前足にクセがありました。
何度注意しても直らないため、平兵衛は「そんな悪い足は斬ってやる」と言って長勝の太腿に突き刺し、それ以降、長勝の足癖はなくなって居合の境地に達したといいます。
この長勝は池田輝政に仕え、大坂冬の陣に出陣してめざましい軍功をあげ、徳川家康から称賛されました。
これにより長勝は浜松城主・徳川頼宣の配下になり、元和5年(1619)に頼宣が紀州藩主となると長勝も紀州に移りました。
長勝の嫡子・田宮平兵衛長家は紀州の地で家督を譲られ、「田宮流」は紀州藩徳川家の兵法として幕末まで伝承されていくことになっていくのです。
おわりに
上の動画から「美の田宮」と呼ばれる理由が分かると思います。
しかし、この田宮平兵衛は当時の柄の長さよりも、三寸(約75㎝)も長い柄(持っている部分)の刀を使っていたよう。
それで「居合」ができるんだから、ホントにスゴイ技を持っていたんでしょう。
それにしても息子の太腿を刺してしまうスパルタ教育は怖すぎます。
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