はじめに
この記事ではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【柳生連也】です。【柳生連也】は「天才」と称された尾張柳生の麒麟児で江戸柳生との夢の対決を制した伝説の剣豪です。それでは【柳生連也】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
柳生連也
名前:柳生連也斎厳包
流派:柳生新陰流
出身:尾張国
年代:江戸時代初期(1625~1694)
不世出の天才
柳生連也は尾張柳生の祖・柳生兵庫助利厳の三男として生まれました。
母は関ケ原の戦いで奮戦した石田三成の軍師・島左近の末娘・珠といわれています。
連也は幼い頃から剣の修行を受け、のちに『不世出の天才』といわれるまでの器量となりました。
すでに13歳の時には、父から習った口述をまとめた武芸書を残しています。
幼少期の連也は道場での稽古が終わると、近所の子供たちに竹刀を握らせて「七郎(連也の幼名)を打て!七郎を打て!」とまくし立て多勢を相手に稽古を続けたといいます。
連也が18歳となった寛永19年(1642)、父の代理として江戸で藩主の嗣子・徳川光友を指南していた兄・利方の推薦を受けて江戸に向かい、光友に御目見えを果たします。
このとき、連也は着任早々に「新陰流」と「一刀流」の使い手30余人と試合して、ことごとく勝利しました。
慶安元年(1648)、父が隠居すると兄・利方は家督を継いで指南役を退き、代わって24歳の連也を正式に指南役として推薦しました。
尾張柳生 VS 江戸柳生
慶安4年(1651)、老いて病身となった将軍・徳川家光を慰めるため、諸藩を代表する武芸の達人が江戸城に集められ、連日武芸が演じられました。
尾張藩にも連也と利方兄弟の参加を要請する書状が届き、二人は二日間に渡って武芸を披露したと伝わっています。
この時の伝説として、連也は従兄弟にあたる将軍家指南役・柳生宗冬(柳生宗矩の子)と非切り試合を行ったといいます。
『非切り』とは形中に隙があった場合、真に打つもので、形試合と言えども非常に厳しい稽古です。
中太刀の木刀をとる宗冬に対し、連也は2尺の小太刀木刀を持って対峙しました。
連也の剣は父・兵庫助の代に独自の工夫を加えていたため、宗冬の「柳生新陰流」とは異なる太刀筋を持っていました。
『沈なる構え』で低く仕掛ける宗冬に対して、『突っ立たる構え』で高く小太刀を掲げた連也。
両者が切り結んだ瞬間、宗冬の木刀は叩き落され、右手の親指を砕かれたといわれます。
連也は一生を通じて兵法修行に明け暮れ、妻を娶らず、女子の縫った衣服さえ着ないという徹底ぶりでした。
晩年は木石を愛でて造園に凝り始め、弟子たちも次々に鉢植えを送り、連也の邸宅は『尾張随一』といわれる庭園になってしましました。
その庭園には藩主も度々訪れ、光友の子・徳川綱誠は「俺も庭が好きだが連也には及ばない」と讃えたといいます。
貞享2年(1685年)、連也61歳の時に隠居を許されて剃髪して連也斎と号し、元禄7年(1694)に兄・利方の子・厳延に印可を相伝して死去しました。
おわりに
ちょんまげ時代に「連也」という名前がまずカッコイイ。そして柳生一族の中で最も優れていた天才剣士!
修行に女はいらない!将軍家に仕えた「江戸柳生新陰流」を打ち負かす!
やることなすこと全てが男前な柳生連也。
でも、実はショックな話もあり。
実は若いころは何回かは女性と交わり、後に衆道(男の子とチョメチョメ)も少々好んでいたらしい。
その後、何があったのかわかりませんが「もし性交した翌日に自分と互角の者と立ち会うことになれば、自分は敗れることになって主君の恥になる。」と言って結婚をしないことに決めたんだとよ。
天才として歴史に名を残すのはいいとしても、自分の性遍歴まで歴史に残されるってどうなの?
プライバシーもへったくれもないですわ。
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