はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【竹内久盛】です。【竹内久盛】は小太刀を得意とし、柔術諸流派の源流を作った伝説の剣豪です。それでは【竹内久盛】について流派や出身地も含め簡単に説明します。
竹内久盛
名前:竹内中務太夫久盛
流派:竹内流
出身:美作国
年代:室町時代後期~戦国時代(1503~?)
身の丈五尺余りの小兵
竹内久盛は、文亀3年(1503)天皇家に繋がる公家の家系とされる竹内家に生まれました。
応仁の乱など戦乱で荒れ果てた京を離れ、美作国に移住した竹内一族は家柄もあってか、美作では地方武士の盟主となっていました。
久盛の時代になると竹内家は鶴田城、一ノ瀬城、三ノ宮城を拠点にして武士団を結成。
当時の中国地方は尼子氏、毛利氏、浦上氏など群雄割拠の状態であり、久盛も日夜、戦に明け暮れていました。
久盛は「身の丈五尺余りの小兵なり」と言われるほど小柄な人物だったようですが、戦では不覚を取らないよう武芸の鍛錬を怠っていなかったと考えられます。
久盛の修行場所は一ノ瀬城から3キロほど離れた三ノ宮の境内。
密かに城を抜け出した久盛は愛宕神に願を込め、六日六夜にわたる断食の修行を行いました。
すると満願の日、修行に疲れた久盛の前に身の丈七尺余りの老山伏が現れます。
久盛は愛宕神の化身と思い、木刀を手に立ち向かいますが、あっという間に老山伏は久盛を組み敷いてしまいました。
そして老山伏は「長刀に易なし」と木刀をへし折り、「これを携え、これを帯せば小具足なり」と言って、小太刀による武術と縄を使った『武者搦めの術』を授けたといいます。
日下捕手開山
老山伏から術を授かって以後、久盛はこの技を二十五ヶ条の小具足組討ちの技としてまとめ『腰之廻』と称しました。
やがて久盛が創始した「竹内流」は一族郎党に伝授され、全員が『腰之廻』の術を身につけて、周囲からは一騎当千の強者揃いと恐れられていきます。
安芸の毛利元就と通じ、毛利傘下の武将として働く久盛でしたが、やがて宇喜多直家に攻撃されると毛利援軍が得られず一ノ瀬城が落城。
城をあとにした久盛は美作大原の新免家に身を寄せたといわれ、このときに宮本武蔵の父・新免無二斎と関わりがあったされています。
その後、竹内久盛は角石谷に居を構え、「以後は農業を生業として子々孫々に至るまで仕官することのないように」と家訓を残しました。
このために2代目・久勝以降は仕官せず、一族の中だけで「竹内流」は伝承されていきます。
そして久盛の編み出した技は2代目・久勝、3代目・久吉によって整理され、『小具足腰之廻』として世に知られるようになり、天皇家から『日下捕手開山』の称号を与えられて柔術諸流派の源流として伝えられていくこととなりました。
おわりに
体が小さいことを逆に利用した武術を編み出した竹内久盛は、まさに「柔よく剛を制す」を地でいく人。
戦国時代の荒波を極めた技で生き抜いてきたが、子孫には仕官を薦めなかったのは世の無常を肌で感じてしまったのだろうか。
その後の一族が戦乱に巻き込まれなかったおかげで、柔術の源流ができることになるのは立派な功績だと思います。
竹内家自体は元々名門の家柄であることから、「日下捕手開山」の称号を受ける際は天皇家に太いパイプがあったのかもしれません。
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