伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介【竹内久盛】日本最強は誰?流派は?

      2018/03/07

はじめに

伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。

日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【竹内久盛】です。

【竹内久盛】は小太刀を得意とし、柔術諸流派の源流を作った伝説の剣豪です。

では【竹内久盛】について流派や出身地も含め簡単に説明します。

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竹内久盛

名前:竹内中務太夫久盛

流派:竹内流

出身:美作国

年代:室町時代後期~戦国時代(1503~?)

 

竹内久盛は、文亀3年(1503)に生まれた。

竹内家は元々、天皇家に繋がる公家の家系であったといわれる。

応仁の乱など、戦乱で荒れ果てた京を離れ、美作国に移住した竹内一族は、その家柄もあってか、美作で地方武士の盟主となった。

竹内久盛の時代になると、竹内家は鶴田城、一ノ瀬城、三ノ宮城を拠点にして武士団を結成した。

当時の中国地方は尼子氏、毛利氏、浦上氏など群雄割拠の状態で、竹内久盛も日夜、戦に明け暮れていた。

そんな中でも、竹内久盛は「身の丈五尺余りの小兵なり」と伝えられている。

このため、竹内久盛は戦で不覚を取らないよう武芸の鍛錬を怠らなかった。

竹内久盛の修行は、一ノ瀬城から3キロほど離れた三ノ宮の境内であった。

密かに城を抜け出し、愛宕神に願を込めて六日六夜にわたる断食の修行を行った。

そして満願の日、修行に疲れた竹内久盛の前に、身の丈七尺余りの老山伏が現れ「汝に一術を授けん」と言った。

竹内久盛は愛宕神の化身と思い、木刀を手に立ち向かう。

あっという間に、老山伏は竹内久盛を組み敷いて「長刀に易なし」と言うと、木刀を二つにへし折って「これを携え、これを帯せば小具足なり」として、小太刀による武術と縄を使った武者搦めの術を授けた。

竹内久盛は、これを二十五ヶ条の小具足組討ちの技としてまとめ、「腰之廻」と称した。

竹内久盛が創始した竹内流は一族郎党に伝授され、全員が「腰之廻」の術を身につけて、周囲からは一騎当千の強者揃いと恐れられた。

安芸の毛利元就と通じ、毛利傘下の武将として働く竹内久盛であったが、宇喜多直家に攻撃されると、毛利援軍も得られず一ノ瀬城が落城する。

城をあとにした竹内久盛は、美作大原の新免家に身を寄せたという。

このときに、宮本武蔵の父・新免無二斎と関わりがあったと推測される。

やがて竹内久盛は角石谷に居を構え、「以後は農業を生業として子々孫々に至るまで仕官することのないように」と家訓を残した。

このため、2代目・久勝以降は仕官せず、一族の中だけで竹内流は伝承されていった。

竹内久盛の編み出した技は、2代目・久勝、3代目・久吉によって整理され、「小具足腰之廻」として世に知られるようになり、天皇家から「日下捕手開山」の称号を与えられて柔術諸流派の源流として伝えられていくことになった。

 

 

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出典:http://ameblo.jp/

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出典:https://ameblo.jp/

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体が小さいことを逆に利用した武術を編み出した竹内久盛は、まさに「柔よく剛を制す」を地でいく人。

戦国時代の荒波を極めた技で生き抜いてきたが、子孫には仕官を薦めなかったのは、世の無常を肌で感じてしまったのだろうか。

その後の一族が戦乱に巻き込まれなかったおかげで、柔術の源流ができることになるのは立派な功績だと思います。

竹内家自体は元々名門の家柄であることから、「日下捕手開山」の称号を受ける際は天皇家に太いパイプがあったのかな?

もしかすると同情もあったのかもしれないと考えてしまいます。

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