はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【岡田以蔵】です。【岡田以蔵】は幕末最大の「人斬り」、日本史上に残る「暗殺者」としてその名を轟かした伝説の剣豪です。それでは【岡田以蔵】について流派や出身地も含め簡単に説明してきます。
岡田以蔵
名前:岡田以蔵
流派:鏡新明智流
出身:土佐国
年代:江戸時代末期(1838~1864)
剣豪としての岡田以蔵
岡田以蔵は土佐国香美郡岩村の郷士・岡田義平の長男として生まれました。
嘉永元年(1848)、父の義平が足軽として徴募されると以蔵も城下に住んで足軽の身分を継ぎました。
そして以蔵は「中西派一刀流」の麻田直養のもとで剣術を学び、たちまち頭角を現してのちに『土佐勤王党』の盟主となる武市半平太から重用されるようになっていきます。
さらに安政3年(1856)、以蔵は半平太に従って江戸の「鏡新明智流」の道場『士学館』で学び、免許皆伝まで受けました。
また、以蔵は万延元年(1860)に半平太の時勢探索に従い、中国、九州地方で武術修行を行ないました。
この時、以蔵は半平太の配慮で岡藩にとどまり、「直指流剣術」も学んでいます。
その後、半平太が『土佐勤王党』を結成し、土佐藩保守派の吉田東洋を暗殺すると半平太が藩の実権を握るようになります。
そして半平太の信頼が厚かった以蔵は文久2年(1862)に参勤交代の衛士に抜擢され、半平太らと共に京へ上がりました。
これ以降、『土佐勤王党』が王政復古運動に尽力する裏側で、以蔵は薩長他藩の同志たちと共に『天誅』と称して集団暗殺活動を開始していきます。
人斬りとしての岡田以蔵
人斬りとして目覚めた以蔵は手始めに、吉田東洋暗殺事件を捜査していた土佐藩士・井上佐市郎を殺害しました。
この時のやり口は、井上を料亭に呼び出して泥酔させ、心斎橋の上で肩を組もうと見せかけて喉元を絞めて殺害。遺体を道頓堀川へ投げ棄てるというものでした。
続いて以蔵は、土佐勤王党と対立していた越後国出身の勤皇の志士・本間精一郎を殺害します。
この時は『薩摩の人斬り』こと田中新兵衛らと共に本間を取り囲み、脇腹をえぐったあと斬首して高瀬川へと投げ込みました。
さらにその二日後、以蔵は安政の大獄の際に志士弾圧を行っていた宇郷重国を見つけ出し、子もろとも斬殺して首を鴨川河岸に晒します。
また、同じく安政の大獄の際に多くの志士を摘発した目明し・猿の文吉についても、以蔵らが自宅から拉致して連行し、裸にして三条河原の杭に縛り「斬るのは刀の穢れになる」として絞殺。
文吉の遺体は竹の棒を肛門から体内を貫通させて頭まで通され、亀頭に釘を打たれて晒されていました。
その後も『人斬り以蔵』の凶行はとどまることを知らず、井伊直弼の懐刀・長野主膳の妾であった村山加寿江(村山たか)を、安政の大獄において志士弾圧に加わった女スパイとして襲撃し、寝ていたところを引きずり出して三条大橋に生き晒しにしました。
加寿江は女ということもあって殺されはしませんでしたが、三日三晩も生き晒しにされたといいます。
また、この翌日には長野主膳と加寿江の子である多田帯刀も連行して殺害し、首を晒しています。
これらを含め、以蔵は文久2年(1862)8月~文久3年(1863)1月の間に9件の暗殺事件に関わったとされています。
この暗殺事件から以蔵は後世において『人斬り』の悪名を背負うことになりますが、当時は同志から『天誅の名人』と呼ばれていたといいます。
罪人としての岡田以蔵
以蔵は半平太が在京中の文久3年(1863)1月、人斬りに飽きてしまったのか、勤王の志士として立とうとしたのか、突如として土佐藩を脱藩しました。
脱藩後の以蔵は酒色に溺れ、同志から借金を繰り返して見放されてしまいます。
この状況を見かねてか、江戸で知り合いになっていた坂本龍馬は以蔵に勝海舟の護衛を頼みました。
佐幕派の要人を暗殺してきた以蔵にとって勝海舟は敵といってもおかしくない人物でしたが、龍馬からの斡旋であれば断ることもできず、しぶしぶ了承することになりました。
そして以蔵が護衛についたある日、勝海舟が不逞浪士三人に襲われたところ、以蔵は一瞬で一人を斬り倒し、残り二人を退散させました。
この時、勝海舟は「人を殺すのを好んではいけない」とたしなめましたが、以蔵から「自分がいなければ、先生の首は飛んでいましたよ」と返されて、それ以上は何も言えなかったと語っています。
このように以蔵には更生の機会はあったものの、自らそれを拒絶し、その後も酒に溺れて龍馬からも見放され、やがて勝海舟のもとを去って無宿者に落ちていきました。
元治元年(1864)、京都町奉行所の無宿人狩りで捕えられた以蔵は額に入墨をされて京を追放されます。
そして丸腰の以蔵を待ち構えていたのは土佐藩の役人たちでした。
為すすべもなく捕らえられた以蔵は土佐の牢獄にブチ込まれます。
この頃、土佐藩では公武合体を唱える山内容堂が実権を回復し、勤王派への激しい弾圧が始まっており、吉田東洋暗殺、京の暗殺事件に関して武市半平太を含む『土佐勤王党』の多くが捕まって調査されていました。
牢獄での以蔵は女も耐えたような軽い拷問に泣き喚き、半平太には「以蔵は誠に日本一の泣きみそであると思う」と酷評されています。
やがて拷問に屈した以蔵は、自分の罪状及び『天誅』に関わった同志の名を自白し、『土佐勤王党』の崩壊のきっかけを作りました。
あることないこと自白する以蔵には、獄内外の同志により毒を差し入れる計画まで浮上しましたが、半平太が強引な毒殺には賛同せず、以蔵の親族からも了承を得られなかったこともあって、実行されることはありませんでした。
そして慶応元年(1865)、以蔵は打ち首、獄門に処されました。享年28。
おわりに
岡田以蔵は、もはや「剣豪」というより「殺人者」と言う方が適切なのかもしれません。
幕末において江戸では様々な流派が道場を構える中、「剣の道」と共に「人の道」も教えていたはず。
しかし、以蔵は「位の桃井」と呼ばれた士学館で学んでいたにも関わらず、残念ながら「人の道」には目覚めることはなく、「殺人者」として目覚めてしまった。
暗殺自体は土佐勤王党、武市半平太らからの命令もあって以蔵一人が悪いとは思いませんが、「天誅」の名のもとに行った残忍な見せしめは、以蔵の中にある狂気があふれ出ているようしか感じません。
ちなみに、以蔵は安政の大獄に関わった者を重点的に暗殺していますが、その中で愛人と子供まで対象とされてしまった井伊直弼の懐刀・長野主膳について過去の記事で書いていますので興味のある方はどうぞ。
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