はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【富田重政】です。【富田重政】は『名人越後』の名で知られた「富田流」の使い手で、実戦においても数々の武功を立てた伝説の剣豪です。それでは【富田重政】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
富田重政
名前:富田越後守重政
流派:富田流
出身:越前国
年代:戦国時代~江戸時代初期(1554~1625)
名人越後
富田重政は川崎弥兵衛景邦の子として生まれ、本名を川崎六左衛門といいます。
父・景邦は「富田流」初代の富田長家の高弟となり、「山崎流」を称していました。
六左衛門は父から「山崎流」を学び、さらに長家の子・富田景政について「富田流」を修めて門下随一の使い手となります。
そして景政から評価された六左衛門は景政の娘を娶って『富田重政』と名乗り、養子として「富田流」も継ぐことになりました。
その後、従五位下に任じられて『越後守』を授けられた重政は前田利家に仕え、天正11年(1583)の末森城の戦いでは一番槍の武功を挙げたことから賞賛を受けます。
また、小田原征伐や関ヶ原の戦いにおいても前田軍の武将として従軍しており、戦功をあげて1万3千石の所領を与えられました。
その後、重政は老齢のため一旦は隠居しましたが、利家の死後に前田利常に従って大坂夏の陣では19の首をあげたといいます。
これらの功績から重政は「富田流」の中でも傑出した存在として『名人越後』の名で呼ばれていきました。
息子は中風越後
晩年、重政は武芸好きで知られる将軍・徳川家光から剣術指南役・柳生宗矩との試合を持ち掛けられました。
重政は謹んでこれを受け、江戸行きの準備を進めていましたが、やがて江戸からの使者がやってきて試合は中止を告げられます。
この時、使者は「龍虎相打つの言葉もあるように名人同士が試合すれば、いずれか一人に汚名がつく」と家光の言葉を伝えたといいます。
富田家の家督は長男・重家が継いでいましたが24歳で死去し、家督と「富田流」は次男・重康が継いで父と同様に『越後守』を称しました。
重康も「富田流」の達人として名を馳せましたが、晩年に中風にかかり『中風越後』と揶揄されたといいます。
おわりに
富田重政は、よくありがちな『神社に参拝』→『奥義開眼』のような眉唾もののエピソードを持つ剣豪ではなく、戦においてその強さを発揮した実戦派の剣豪。
所領1万3千石って少なそうに聞こえますけど、なかなかのもんですよ。
たしか、大河ドラマで主役を務めた井伊直虎の所領がそのぐらいのはず。
『名人越後』と呼ばれた父が偉大過ぎたため、『中風越後』というイジメのようなあだ名をつけられた息子がマジでかわいそうです。
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