はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【斎藤伝鬼坊】です。【斎藤伝鬼坊】は戦国時代に剣と槍の両方を極めた豪傑として有名な人物であり、名前も格好もド派手な剣豪でした。それでは【斎藤伝鬼坊】について流派や出身地も含め簡単に説明します。
斎藤伝鬼坊
名前:斎藤伝鬼坊、斎藤勝秀
流派:天流、天道流
出身:常陸国
年代:室町時代後期~戦国時代(1550~1587)
天流・井出判官伝鬼坊
斎藤伝鬼坊は常陸国真壁郡新井手村で北条氏康の家臣の家に生まれました。幼名は金平、のちに主馬之助。
幼少時代より刀槍の術を好み、塚原卜伝のもとで「新當流」を学んで門下の中でも突出した技量を見せていました。
しかし、自身の修行に限界を感じてしまった主馬之助は、武芸上達祈願のため鎌倉鶴岡八幡宮に百日参詣することにします。
この時、主馬之助は武芸に通じていた一人の修験者と出会って意気投合し、二人は刀槍の術について語り合うようになりました。
そしてお互いの腕を高める内、主馬之助は刀槍の妙技について悟るようになっていったのです。
百日参詣の満願の日(1581年11月20日)、立ち去ろうとする修験者に主馬之助が流派を尋ねると、修験者は何も言わず太陽を指さしたといいます。
ここから主馬之助は自らの流派「天流」を立ち上げました。
その後、諸国で武者修行を続け、主馬之助の名が天下に知れ渡ると朝廷に招かれることになりました。
そして朝廷で『一刀三礼』の秘剣を披露して評価された主馬之助は『判官左衛門尉』の位官を賜り、名を「井手判官伝鬼坊」と改名しました。
弟子を守って力尽きる伝鬼坊
朝廷からもお墨付きをもらったことで伝鬼坊は武芸者として名をあげ、各地を巡ったのちに故郷の真壁郡に凱旋帰国しました。
帰国する際の伝鬼坊のいでたちは、天狗のような格好であったといいます。
故郷に戻った伝鬼坊のもとには下妻城主・多賀谷修理太夫をはじめ、多くの武家が教えを請いにくるなど、地元の英雄として大変もてはやされました。
しかし、常陸国はもともと「神道流」が盛んな土地柄であり、有名となった伝鬼坊のことを妬み嫌う者もいました。
そんな中、伝鬼坊は「霞神道流」の真壁氏幹の門人・桜井霞之助と試合を行い、これを斬殺してしまいます。
このため『霞党』と呼ばれる者たちに恨みを買ってしまった伝鬼坊は、1587年に弟子・小松一卜斎と一緒にいるところを数十人に取り囲まれました。
この時、伝鬼坊は一緒に戦おうとする一卜斎を不動堂の中に押し込めて一人で応戦。
鎌槍を手に奮戦するものの、最後は無数の矢を射かけられて力尽きてしまいました。
最後に伝鬼坊が振るった槍の技は、生き延びた一卜斎によって伝鬼坊の子・法玄に『一文字の乱』として伝えられ、のちに「天道流」と名を変えて今も伝承されています。
おわりに
ド派手ないでたち、ド派手な名前ですが、斎藤伝鬼坊はそれに負けないぐらい相当な力量を持った人物だったんでしょう。
まぁ自分の名を売るためのアピールかもしれませんが、よっぽど自分の実力に自信がないとなかなかできませんよ。普通は。
さらに人格も備わっていたのか、最後は弟子を守って死ぬ姿なんかは、実に泣かせるじゃないですか。
そんなド派手で実力があってチヤホヤされる伝鬼坊を妬んでしまう霞党の皆さんの気持ちも分からないでもありませんけどね。
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