はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【吉岡憲法】です。【吉岡憲法】はかの有名な剣豪・宮本武蔵に敗れた剣豪としてドラマなどで引き立て役によく使われていますが、実際の勝敗の結果は実は分かっていないとされる伝説の剣豪です。それでは【吉岡憲法】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
吉岡憲法
名前:吉岡憲法
流派:吉岡流
出身:山城国
年代:戦国時代(?~?)
「憲法」とは
吉岡憲法の名『憲法』とは「吉岡流」の屋号のようなもので、吉岡家は『けんぽうの家』と呼ばれ、京の人々からは剣術の家として古くから知られていました。
吉岡家の家伝『吉岡伝』の中でも、吉岡家の当主は代々『憲法』を名乗っていることから『吉岡憲法』といっても一人の人間を指すものではないことが分かります。
その中でも初代『憲法』である吉岡直元は、室町幕府12代将軍・足利義晴に仕えて軍功があり、ここから足利家と深く結びついていったといいます。
その後、吉岡家は弟の吉岡直光が『憲法』を継いで足利家兵法指南となり、京都今出川で道場を構えて『天下の兵法所』と呼ばれることになりました。
この直光は剣豪将軍として知られた足利義輝に仕えていましたが、義輝が死ぬと有名無実化した将軍家から離れてひっそりと生涯を閉じたといいます。
やがて織田信長の擁立されて足利義昭が将軍に就くと、吉岡家では直光の長男・吉岡直賢が3代目となり、再び兵法指南役となりました。
この直賢も『憲法』を名乗り、一説によると宮本武蔵の父である新免無二斎と試合を行ったといわれます。
勝ったのは武蔵か吉岡か
吉岡家の4代目当主となったのは、直賢の嫡男として生まれ祇園藤次に兵法を学んだ吉岡直綱。
『二天記』によると、この直綱の代の時に吉岡一門は当時21歳だった宮本武蔵と試合を行い、敗れたと伝わっています。
しかし、一方で『吉岡伝』では蓮台野の試合で武蔵は眉間を打たれて敗れ、その後一乗寺下り松では武蔵が行方をくらませて逃げたとも伝わっています。
慶長19年(1614)の大坂の役が起きた時、徳川家康は京都所司代を通じて吉岡一門が大坂方に従軍しないよう申し伝えていました。
しかし、吉岡家は大坂城に入城して徳川軍と戦うことを選んでしまいました。
このため、吉岡家は徳川家に遠慮して兵法所を閉じ、家伝の一つである染物業に専念しました。
その後、吉岡家が染めた黒褐色の染物は『吉岡染』『憲法染』と呼ばれて大成功することになり、今でも高級品として伝承されることになりました。
おわりに
吉岡一門と宮本武蔵との決闘の勝敗は、両者の意見が全く食い違っていてハッキリしていませんが、現代では武蔵の人気に圧倒的に押されて吉岡側の負けが真実のようになっています。
実際はどちらかがウソを言っているのだと思いますが、負けた方は素直に負けを認めないってところはさすが兵法家。剣豪としての意地もあるんでしょうね。
でも、今後も武蔵の人気は衰えることがなさそうなので、おそらく吉岡家は負けた側として永遠に語られていくことになりそうです。
なんだか、かわいそうですね吉岡家って・・・
剣豪名をクリックすると個別の剣豪紹介記事が見れます↓