はじめに
この記事ではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【片山久安】です。【片山久安】は、実戦剣術が好まれる戦国時代において「居合」を天下に認めさせた伝説の剣豪です。それでは【片山久安】について流派や出身地も含め簡単に説明します。
片山久安
名前:片山伯耆守久安
流派:伯耆流、片山流
出身:周防国
年代:戦国時代~江戸時代初期(1574~1650)
居合は先ずる者に先ずる
片山久安は居合の祖として有名な林崎甚助の門弟とも、叔父の片山松庵から『居合十八刀の秘太刀』を授けられたともいわれる剣豪。
幼少より武芸を志し、刀を好んだ久安は自ら学んだ技に満足することなく、諸国を巡って教えを請い修行を重ねていました。
そして京の愛宕社に参籠して術の成就を祈った際、夢で『貫』の字を見て極意『磯之波』の一刀を悟ったといいます。
やがて久安の名声が諸国に伝わっていくと、全国から教えを請う者が集まるようになりました。
当時はまだ戦国の世であって戦場で役に立つ剣術が好まれる時代、久安にが教えようとした技は甲冑の弱いところ攻める剣術を工夫された居合剣術でした。
時が経ち、久光は豊臣秀次に招かれると、秀次から久安の剣術が他と異なる理由を尋ねられました。
すると久安は「居合なるものは、これに先ずる者に先ずる也。すなわち治国平天下の則也」と独自の理論を答え、感心した秀次の剣術指南になったといいます。
天下に認められた居合
慶長15年(1610)、久安は後陽成天皇にも招かれて演舞を行いました。
ここで天皇は久安の剣を大いに評価し、『従五位下・伯耆守』を与えたことで片山伯耆守久安の名は天下に轟きました。
その後、豊臣家が滅びると久安は浪人となり岩国へ移ることになりますが、岩国で久安は吉川家の客分として迎えられ、佐伯氏の娘を娶って領地まで与えられるほど厚遇されました。
そんな安定した生活の中でも久安の武術探求の思いは尽きることがなく、やがて諸国へ武者修行に出発します。
そして関東の鹿島神宮を訪ねたときに、ついに自らの居合の極意を完成させたといいます。
やがて帰国した久安は吉川家の剣術指南役として生涯を送り、その技は子孫たちによって伝えられていきました。
岩国では「片山流」と称された久安の居合は、広島藩や熊本藩など各地に広まり、現在でも「片山伯耆流」、「伯耆流居合」として盛んに行われる流派となっています。
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