はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【高橋赳太郎】です。【高橋赳太郎】は『三郎三傑』の一人として名を馳せ、技を超えた達人と評された伝説の剣豪です。それでは【高橋赳太郎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
高橋赳太郎
名前:高橋赳太郎
流派:無外流、津田一伝流
出身:播磨国
年代:江戸時代末期~昭和(1859~1940)
過酷な幼少期
高橋赳太郎は安政6年(1859)に姫路藩の剣術指南役・高橋哲夫武成の長男として生まれました。諱は高運。
高橋家は代々酒井家に仕え、父は藩校『好古堂』で「無外流」剣術、「自鏡流」居合、「津田一伝流」剣術の師範を務め、自らも道場『膺懲舎』を開いて弟子を受け入れていました。
赳太郎は6歳から『膺懲舎』で剣術修行を命じられて稽古を始めましたが、父の指導は厳しく、倒れれれば冬でも井戸の水を浴びせられるという過酷な稽古をつけられていました。
また、赳太郎は剣術のほかにも『好古堂』で柔術や馬術、学問などを学ぶなどの英才教育を受けていました。
しかし、明治維新がなると父は藩の師範役を解任され、次第に道場からは門人たちが去って稽古は高橋父子だけになってしまいました。
それでも懸命に稽古に励んだ赳太郎は明治9年(1876)、父から「無外流」剣術と「津田一伝流」剣術の免許を与えられました。
その後、父が亡くなると赳太郎は祖父の高橋八助成行から「無外流」奥伝を伝授され、武者修行の旅を決意します。
しかし、当時の政府は剣術を禁じていたために赳太郎は表向きは見世物という名目で剣術修行を行なっていきました。
そして近畿、中国地方を数ヶ月間かけて回った赳太郎は帰郷後、大阪で警察官として採用されました。
三郎三傑
明治16年(1883)、高知の撃剣興行一座が大阪に来た時、赳太郎は同じ「無外流」の川崎善三郎と対戦しました。
この時、実力伯仲の両者の勝負はなかなか決着がつかず、引き分けかとも思われました。
しかし、審判を務めていた秋山多吉郎は「死ぬまでやれ」と叱咤したため、二人は試合を止めることもできず、組討ちまでもつれこんだ末に意識を失い倒れてしまいました。
二人は気が付いたときには並んで氷枕に寝かされていましたが、この死闘は行き場所を失っていた剣士の間で高く評価されたといいます。
その後、赳太郎は明治20年(1887)に上京して警視庁撃剣世話掛の採用試験を受けました。
上田馬之助、逸見宗助ら名だたる剣豪が審査員を務めたこの採用試験は非常に過酷なものであったといいます。
まず雪が積もる中を裸足で野試合を行いましたが、審査員たちはなかなか「それまで」と言わないため、足の感覚は完全にマヒ。
さらに野試合が終わると道場に通され、得能関四郎ら警視庁で指折りの剣士10数名との稽古が行われました。
代る代る剣士が交代する中、息つく暇もなく稽古の相手を務めた赳太郎は、この雪の日のことが一生忘れられない出来事になったとのちに語っています。
この試験に合格した赳太郎は撃剣世話掛として採用され、警察署員に撃剣を指導しながら自らの剣を磨き、特に剣術に優れた者として同時期に採用された川崎善三郎と高野佐三郎と共に『三郎三傑』と呼ばれるようになりました。
技を超えた達人
その後、赳太郎は明治21年(1888)に宮内省『済寧館』天覧試合に出場し、そこで上田馬之助と逸見宗助の試合を見て衝撃を受けます。
二人は構えたまま技を出さず、そのまま試合は終えたのです。
これに赳太郎は「二人は気で戦っていた」と強い感銘を受け、自分もその境地に達することを目指すことになりました。
翌年、兵庫に戻り、神戸警察署撃剣教師などを務めた赳太郎。
明治28年(1895)には道場『知進館』を開いて剣術・柔術を教授していましたが、やがて川崎善三郎と高野佐三郎と共に大日本帝国剣道形制定の委員に選ばれて「形」の統一に尽力しました。
そして剣道界の重鎮となった赳太郎は、大正13年(1924)に宮内省皇宮警察部主催の済寧館台覧試合に出場しました。
この時、赳太郎は門奈正との試合で互いに一度も技を出せずに引き分けとなり、「技を超えた達人」同士の試合と評されたといいます。
昭和15年(1940)、死去。享年81。
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