はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【柳生宗矩】です。【柳生宗矩】は戦の世の剣から治世の剣へと新たな剣術の道を開いていった伝説の剣豪です。それでは【柳生宗矩】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
柳生宗矩
名前:柳生但馬守宗矩
流派:柳生新陰流
出身:大和国
年代:戦国時代~江戸時代初期(1571~1646)
徳川家に信頼された宗矩
柳生宗矩は柳生石舟斎の五男として生まれ、24歳のときに父に代わって徳川家に出仕しました。
慶長5年(1600)、上杉討伐に向かっていた際、上方での石田三成の挙兵を知った徳川家康は宗矩を呼んで、大和国柳生庄にいる石舟斎へ「関西が乱れた際は、和泉国をかき乱すために兵を挙げ、自ら参陣して徳川方として戦うように」という密書を託しました。
しかし、石舟斎は老齢を理由に動かず、宗矩だけが少数の手勢を率いて参陣し、関ケ原の戦いの前日に加わったといいます。
この時、石舟斎は柳生を動きませんでしたが、伊賀、甲賀に近かった柳生は忍びの頭領としての地位もあったとも言われているため、西方の陽動作戦を担っていたという説もあります。
関ケ原の戦いは徳川軍の勝利に終わり、宗矩は軍功を挙げて1千石の知行を与えられ、2代将軍・徳川秀忠の兵法師範となりました。
その後の大坂夏の陣では、豊臣方の木村重成の一族・主計が数十人を率いて秀忠の陣に突入してきた際に、宗矩は慌てふためく旗本たちの中にあってとっさに愛刀『大天狗正家』を抜き、武者7人を斬り倒して窮地を救ったといいます。
戦時の兵法から平時の兵法へ
大坂の陣の翌年、宗矩は友人でもあった坂崎直盛の反乱未遂事件の交渉と処理を行います。
この時、宗矩は「直盛の自害のみで事を治める」と幕府に約束させたにも関わらず、幕府はその後に坂崎家を取り潰しました。
これに責任を感じていた宗矩は、元々の柳生家の家紋に加えて坂崎家の家紋『二蓋笠』を使用し始め、これが後に『柳生二蓋笠』と呼ばれる紋となりました。
また坂崎の嫡子・平四郎を引き取って大和に住まわせることもしています。
幕府が安定期に入った元和7年(1621)、宗矩は後に3代将軍となる徳川家光の兵法指南役となり「柳生新陰流」を伝授します。
その後、宗矩は将軍となった家光から信頼され、幕府の権勢とともに出世と重ねて従五位下、但馬守に任官。
さらに初代幕府惣目付(大目付)となって老中・諸大名の監察する重責を果たし、寛永13年(1636)には加増を受けて1万石の大名となって大和国に柳生藩を立てました。
宗矩の剣豪としての姿はほとんどないものの、『兵法家伝書』などの兵法書を残して「活人剣」や「不殺の剣」を説いています。
そしてこの宗矩の活躍以降、『剣』は歴代の剣豪たちが極めた『戦時の兵法』から、幕府の治世に合わせた『平時の兵法』へ変わっていくこととなりました。
おわりに
剣豪として活躍する場面は少ないですが、父・石舟斎から推薦されるほどだったのだから相当な剣の使い手だったんでしょう。
しかし、その剣を『殺人剣』として使わず、時代が求める『活人剣』へと完成させていったことを考えると、この人は剣のキレ味よりも、頭の方がキレる賢い人だったんじゃないだろうか。
出世街道をばく進していくところを見ても、政治家としても有能だと思われ、「剣豪」の中では非常に稀有な存在。
この人を主役にした大河ドラマがあって面白いかなと思います。
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