はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【松山主水】です。【松山主水】は一種の超能力のようなものを使う伝説のサイキック剣豪ですが、少し性格に難のある人物でもあります。それでは【松山主水】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
松山主水
名前:松山主水大吉
流派:二階堂平法
出身:美濃国
年代:戦国時代~江戸時代初期(?~?)
心の一方
松山氏は西美濃十八将の一人・松山刑部正定の一族として美濃に伝わる「二階堂平法」を継いでいました。
竹中半兵衛重治の従弟ともいわれる松山主水は祖父より「二階堂平法」を学び、祖父の名を継いで『主水』を名乗ったといいます。
江戸で浪人をしていた主水は、友人と二人で千住小塚原あたりを歩いている時に若侍たち数十人に因縁をつけられ、友人を斬り捨てられました。
激怒した主水は友人を斬った相手を斬り倒しますが、残った若侍たちに簡単に取り囲まれてしまいます。
そして若侍たちが斬りかかろうとした瞬間、主水は輪の中から消え、若侍たちの背後に立っていました。
主水は胸先に刀を持ち、左手を刀の棟に乗せた不思議な構えをしていて、若侍が斬りかかろうとしてもなぜか体が動きません。
その後、主水は掛け声とともにその場から立ち去っていったといいます。
主水が使った術は「心の一方」または「すくみの術」といわれる催眠術のようなもの。
この術は相手を金縛りにあったように身動きできなくする術であり、主水は12歳のときから祖父に師事して秘伝を伝授されていました。
松山主水暗殺事件
その後、主水は熊本藩・細川家に近習として出仕し、藩主・細川忠利の武術師範を務めました。
忠利は主水の手ほどきを受けてから急速に上達し、柳生宗矩と試合して勝つこともありました。
宗矩は突然上達した忠利の剣の腕に首を傾げたといいます。
また、忠利が江戸城へ登るとき主水が行列の先頭に立つと、「心の一方」の術によって混雑していてもスイスイ進むことができました。
主水が左手のひらを下向きに前に突き出すと、行列を横切ろうとする者は動けなくなってしまったといわれています。
また、このころ細川家は改易された加藤家の浪人を受け入れて豪傑と知られた荘林十兵衛は忠利の父・細川忠興の家臣となっています。
隠居していた忠興と忠利は仲が悪く、家臣たちもケンカすることが日常茶飯事でした。
主水もその内の一人である時、忠興の船に飛び乗って狼藉を働いた上で荘林十兵衛を小バカにしました。
この行動に忠興は大激怒。
忠興は家臣の威厳を保つためにも主水暗殺を命令しました。
これにはさすがに主水も焦り、詫びを入れますが許されることはなく、忠利の勧めでしばらく身を隠すこととなりました。
こうして主水は松江村の光円寺に匿われましたが、ここで主水は身体を壊して病の床についてしまいます。
すると、そこに見舞いを装った荘林十兵衛が現れ、いきなり無言で布団の上から主水を刺しました。
主水は「卑怯っ」と叫んで刀を取ろうとしましたが、すでに致命傷を受けており立ち上がることすらできません。
一方、目的を達して安堵した荘林十兵衛は縁側に下りて水を飲んでいました。
すると「卑怯者!」という声とともに、荘林十兵衛の後ろから小姓に斬りつけます。
完全に油断していた荘林十兵衛はまともに太刀をくらって絶命。
薄れゆく意識の中、この状況を見届けていた主水は「でかした・・・」と一言褒めて息絶えたといいます。
主水の死後、この小姓は探し出されて殺され、さらに今度は荘林の子・半十郎が槍で突き殺されるという恨みの連鎖が続きます。
この事態を重く見た忠利と忠興は直接対面して収拾を図ることになりましたが、剣術が盛んな細川藩はこれ以前にも宮本武蔵によって兵法師範の佐々木小次郎が殺される事件が発生するなど、常に血生臭い事件が起こる場所でもありました。
ちなみに主水には村上吉之丞という群を抜いて優れた門弟がおり、細川家に仕官を求めた宮本武蔵に試合を挑んだところ、武蔵は恐れて逃げたという逸話が伝えられています。
おわりに
「心の一方」という相手を動けなくしてしまう術。
これが本当なら松山主水は「最強」の剣豪ですよ。性格は「最悪」ですけど。
そんなサイキッカー主水も病気には勝てないのか最後は秘技「心の一方」が不発し、何ともあっけない最期。
強いからって何でもやっていいわけじゃありません。
フォースの力をダークサイドに使っちゃうシスのように。
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