はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【丸目蔵人】です。【丸目蔵人】は剣聖・上泉伊勢守信綱の新陰流を受け継ぎ、九州に広めていった伝説の剣豪です。それでは【丸目蔵人】について流派や出身地も含め簡単に説明します。
丸目蔵人
名前:丸目蔵人佐長恵
流派:タイ捨流
出身:肥後国
年代:戦国時代~江戸時代初期(1540~1629)
新陰流との出会い
丸目蔵人は天文9年(1540)に丸目与三右衛門尉の長男として肥後国人吉で生まれました。
この頃、肥後国の大名・相良氏は南の島津氏、北の大友氏と絶えず戦火を交えていました。
そんな中で蔵人は3人の弟とともに若くして剣術修行に励み、16歳の時には大畑合戦で初陣を飾ります。
そして17歳からは「中条流」を学び、19歳の時には供を連れて京へと武者修行の旅に出ました。
京で蔵人は剣聖と名高い上泉伊勢守信綱と出会い、己の実力を図るためにもすぐに試合を所望しました。
すると信綱から袋竹刀を手渡され、蔵人はそれを怪しみながら手に取って立ち合います。
袋竹刀は相手を傷つけず試合を行えるもので当時としては画期的なものでしたが、この頃に使っていたのは信綱たち「新陰流」の者たちだけでした。
試合では信綱に面を2本を軽く取られてしまい、3本目は袋竹刀すら使ってもらえず、体当たりでぶっ飛ばされるなど蔵人は全く歯が立ちません。
そして「新陰流」の神業に圧倒された蔵人は、その場で入門を願い出ることになりました。
新陰流免許皆伝
蔵人は入門を許されたあとは水を得た魚のように稽古に精進し、「新陰流」を学んでいきました。
ほどなくして、多くの門弟の中でも頭角を現した蔵人は信綱が将軍・足利義輝や正親町天皇の前で剣技を披露した時には相手役を務めるほど上達していました。
その後、信綱と別れた蔵人は故郷に帰り、相良氏に仕えて「新陰流」を指南していきました。
また、己の研鑽にも努めていた蔵人は永禄9年(1566)、門弟の丸目寿斎、丸目吉兵衛、木野九郎右衛門を伴って再び上京を果たします。
この時、蔵人は愛宕山、誓願寺、清水寺の3か所に『天下一』の立札を出して真剣勝負を募集しましたが、名乗り出る者は誰一人いませんでした。
そして、この話を聞いた信綱は蔵人に対して『殺人刀太刀、活人剣太刀』の印可を与え、蔵人は晴れて免許皆伝となったのです。
ちなみに清水寺に掲げられた蔵人の高札は、その後も誰一人として手を触れる者がなく、寛永9年(1632)に清水寺が火災に遭うまで残されていたといいます。
新陰流からタイ捨流へ
帰郷した蔵人は再び相良氏に仕えましたが、永禄12年(1569)に島津氏が大口城を攻めてきた際、蔵人は策にのせられて多くの将兵と大口城を失います。
敗戦後、主君・相良義陽は蔵人に責任を負わせ、その後どんな功績を上げようとも目通りを許すことはありませんでした。
武将としての出世の道が途絶えた蔵人はその後、兵法の鍛錬を続けて九州一円の他流の兵法を打ち破り、これを知った信綱より西国での「新陰流」の教授を任されました。
一方、この間に蔵人の門人であった有瀬外記という者は関東に出て、信綱の直弟子になっていました。
そして有瀬外記が修行を終えて帰国する際、信綱はさらに工夫し進化した「新陰流」を蔵人に伝えるように申し送りました。
しかし、有瀬外記が帰国後にいくら伝えようとしても、蔵人は自分の門人だった者から学ぶことを嫌って取り合おうともしません。
それでも、やはり信綱の工夫した剣が気になってしまった蔵人は、直接会って教授してもらおうと関東へ向かうことになります。
長旅を終え、関東に着いた蔵人でしたが、残念ながら信綱はすでにこの世を去っていました。
このため、落胆して帰った蔵人は昼夜問わず鍛錬に励み、自らの流派「タイ捨流」を立ち上げます。
「タイ捨」は「太捨」、「体捨」、「待捨」とも書きますが、通常は仮名文字を用います。
これは字にとらわれず幅広い意味を持つためだといわれます。
晩年、相良氏に許された蔵人は「タイ捨流」の剣術指南として仕え、肥後国だけでなく「タイ捨流」を九州一円に広めて、他家からも弟子や門人を迎えました。
最後は徹斎と号して隠居生活を送り、寛永6年(1629)に死去。享年89。
おわりに
上泉伊勢守信綱に学び、「新陰流」の正統な系統として九州に「タイ捨流」を広めた丸目蔵人。
師匠を敬うならば、柳生新陰流のように「タイ捨新陰流」とでも名乗って欲しかった・・・。
「弟子からは学びたくない」といった頑固で融通の利かないところは残念と言えば残念ですが、やはり強くなりすぎるとこだわりも比例して強くなっていくものなのかな?
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