伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介【上泉信綱】日本最強は誰?流派は?

      2017/07/19

はじめに

伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。

日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介するのは剣聖といえばこの人【上泉信綱】です。

【上泉信綱】は、陰流から新陰流を編み出し、あの柳生に剣を教えた伝説の剣豪です。一般的には【上泉伊勢守】の方が知られているかもしれません。

この人も【塚原卜伝】と並び超有名人なのでいまさら説明するまでもありませんが、「日本の剣豪」を語る上では【上泉信綱】について避けて通れません。

というわけで、【上泉信綱】の流派や出身地も含め簡単に説明します。

 

 

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上泉信綱

名前:上泉信綱、上泉伊勢守、上泉秀綱、上泉秀長

流派:新陰流

出身:武蔵国

年代:室町時代後期~戦国時代(1508~1577)

 

上泉伊勢守信綱は、初め名を秀長、秀綱といった。上泉城主・上泉秀継の次男として生まれ、16歳のとき兄の死去によって家督継承者となる。

武蔵武士の習いとして、念阿弥慈恩を祖とする念流を学び、また下総の香取で飯篠長威斎家直伝系の新当流を修めた。さらに、愛洲日向守移香斎の陰流を修め、享禄2年(1529)に陰流の極意を授かった。

同年、上泉伊勢守秀綱(以下、上泉伊勢守で統一)を名乗り、上泉の主城である大胡城の城主となった。

しかし、上杉管領家に属していた上泉氏は北条勢に攻略され戦わずして開城することになる。

その後、上泉伊勢守は上杉側の箕輪城主・長野業正の旗下に加わり、戦においてたびたび戦功をあげて「長野家十六人の槍」と称された。また「上野国一本槍」という感状を得るほどの活躍もしている。

永禄6年(1563)、武田信玄によって箕輪城が落城。

武田信玄は上泉伊勢守の武名を惜しんで旗本に召し抱えようとするが、上泉伊勢守は新陰流の普及を理由に武者修行を申し出てこれを固辞した。

こうして上泉伊勢守は武将としての道を捨て、武芸者としての道を選ぶこととなった。

上洛を目指した上泉伊勢守は、塚原卜伝より「一つの太刀」を相伝された伊勢の国司・北畠具教の館「太の御所」に立ち寄る。

一流の武人でもあった北畠の館には、多くの武芸者が集まっており、ここで上泉伊勢守はすでに名を知られていた柳生宗厳を紹介された。

柳生宗厳は上泉伊勢守が来訪した知らせを受けて、奈良宝蔵院で対面し仕合いを挑む。

三日間挑み続けるも結果は柳生宗厳の完敗。弟子で上泉伊勢守の甥・疋田豊五郎景兼にも勝てなかった。

そして柳生宗厳は負けを認め、上泉伊勢守に滞留を乞うて新陰流の教えを求めることとなる。

 

 

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出典:http://www.sports-chiro.jp/

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こうして上泉伊勢守は柳生の庄に滞在することになり、この間、柳生宗厳は寝食を忘れて稽古に没頭。

武芸者として知らぬもののなかった柳生の弟子入りは上泉伊勢守の名声を一気にのし上げ、噂は北畠具教と同じく塚原卜伝より「一つの太刀」を相伝された十三代将軍・足利義輝や正親町天皇にもとにまでとどき、ついには一介の兵法者としては前代未聞の上覧演芸を行うに至った。こうして上泉伊勢守は天皇、将軍の双方より「天下一」の称賛を受けることとなった。

半年後、上泉伊勢守は無刀にて太刀に応じる「無刀取り」について、柳生宗厳に工夫するよう要請し再会を約束して柳生の庄を去る。

翌年、再び柳生の庄を訪れた際、柳生宗厳の「無刀取り」の技を見てこれを賞賛して新陰流二世に印可を与えた。

この後の上泉伊勢守の消息は不明である。

※柳生宗厳に相伝した影目録の一、燕飛の巻には「中古、念流、新当流、亦また陰流あり、その他は計るにたへず。予は諸流の奥義を究め、陰流において別に奇妙を抽出して、新陰流を号す。予は諸流を廃せずして諸流を認めず。」と書いてある。上泉伊勢守はこれまでに学んだ念流、新当流、陰流の長所を合わせ、特に陰流に強い啓示を受けて新陰流を創始したことがわかる。また、陰流の極意は年齢的にも愛洲日向守移香斎の子・平田小七郎宗通から授かったと考えるのが妥当である。

 

 

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出典:http://ameblo.jp/

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上泉伊勢守信綱が「剣聖」として評価されるのも、弟子の柳生がその後、徳川家に仕えて指南役として活躍していったことが大きく影響していると思われます。

しかし、柳生がボロ負け、天皇、将軍から「天下一」と称賛されるほどですから、相当な実力の持ち主であったことは間違いありません。

 

塚原卜伝を「剣聖」と呼ぶ人もいて、『どっちが本物の「剣聖」?』となることもありますが、別に二人とも「剣聖」でいいんじゃないでしょうか。

二人とも城主という高い身分でありながら、二人の剣は他と比べて群を抜いていますし、なにより教え方が上手いのか、弟子達がすくすく育っていきます。

この教える技術の高さこそ「剣聖」と呼ばれる所以でしょう。

 

 

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