はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介するのは剣聖といえばこの人【上泉信綱】です。【上泉信綱】は「陰流」から「新陰流」を編み出し、あの柳生に剣を教えた伝説の剣豪です。一般的には【上泉伊勢守】の方が知られているかもしれません。この人も【塚原卜伝】と並び超有名人なのでいまさら詳細な説明をするまでもありませんが、「日本の剣豪」を語る上では【上泉信綱】について避けて通れませんので流派や出身地も含めて簡単に説明していきたいと思います。
上泉信綱
名前:上泉信綱、上泉伊勢守、上泉秀綱、上泉秀長
流派:新陰流
出身:武蔵国
年代:室町時代後期~戦国時代(1508~1577)
城主だった上泉信綱
上泉伊勢守信綱は、はじめの名を秀長といいました。
上泉城主・上泉秀継の次男として生まれ、16歳のとき兄の死去によって家督継承者となっています。
武蔵武士の習いとして念阿弥慈恩を祖とする「念流」を学び、また下総の香取で飯篠長威斎家直伝系の「新当流」を修めた秀長は、さらに愛洲日向守移香斎の「陰流」も修めて享禄2年(1529)に「陰流」の極意を授かって、自身の流派「新陰流」を興しました。
同年、上泉伊勢守秀綱(以下、上泉伊勢守で統一)を名乗り、上泉の主城である大胡城の城主となりますが、上杉管領家に属していた上泉氏は、敵対勢力の北条勢に攻略され戦わずして開城することになりました。
その後、上泉伊勢守は上杉側の箕輪城主・長野業正の旗下に加わり、戦においてたびたび戦功をあげて『長野家十六人の槍』と称されました。
また『上野国一本槍』という感状を得るほどの活躍もしています。
永禄6年(1563)、武田信玄によって箕輪城が落城すると、信玄は上泉伊勢守の武名を惜しんで旗本に召し抱えようとしました。
しかし、上泉伊勢守は「新陰流」の普及を理由に、武者修行を申し出てこれを固辞します。
こうして上泉伊勢守の戦国武将としての道は終わり、武芸者としての道が始まります。
柳生の弟子入り
上洛を目指した上泉伊勢守は、まずは伊勢の国に立ち寄ります。
ここには塚原卜伝より『一つの太刀』を相伝された伊勢の国司・北畠具教の館『太の御所』がありました。
一流の武人でもあった北畠の館には多くの武芸者が集まっており、ここで上泉伊勢守は奈良で剣豪として名を馳せているいう柳生宗厳の名を聞きました。
一方の柳生宗厳も、上泉伊勢守が来訪した知らせをこの時に受けており、立合いたいという気持ちがふつふつと沸いていました。
そして両者は奈良の宝蔵院で対面することになり、すぐさま仕合いが行われることとなりました。
若く血気盛んな柳生宗厳は自信満々で立ち合いに挑みますが、結果は上泉伊勢守の前に見事に完敗。
三日間挑み続けて一度も上泉伊勢守には勝つことができず、弟子で上泉伊勢守の甥・疋田豊五郎景兼にすら勝つことができませんでした。
この仕合いで柳生宗厳は素直に負けを認め、すぐに上泉伊勢守に滞留を乞うて「新陰流」の教えを求めることとなったのです。
天下一の剣豪
上泉伊勢守が柳生の庄に滞在することになると、柳生宗厳は寝食を忘れて稽古に没頭します。
武芸者として知らぬもののなかったこの柳生の弟子入りは、上泉伊勢守の名声をより一層のし上げることになりました。
噂は北畠具教と同じく、塚原卜伝から『一つの太刀』を相伝されていた十三代将軍・足利義輝や正親町天皇の耳にまでとどき、ついには一介の兵法者としては前代未聞の上覧演芸を行うにまで至ります。
そして上泉伊勢守は天皇、将軍の双方より『天下一』の称賛を受けることとなりました。
半年後、上泉伊勢守は無刀にて太刀に応じる「無刀取り」について柳生宗厳に工夫するよう要請し、再会を約束して柳生の庄を去ります。
そして翌年、再び柳生の庄を訪れた上泉伊勢守は、工夫された柳生宗厳の「無刀取り」の技を見て賞賛し、新陰流二世に印可を与えました。
この後の上泉伊勢守の消息は不明ですが、九州の丸目蔵人に対して永禄10年(1567)に与えた印可状が残っています。
※柳生宗厳に相伝した影目録の一、燕飛の巻には『中古、念流、新当流、亦また陰流あり、その他は計るにたへず。予は諸流の奥義を究め陰流において別に奇妙を抽出して、新陰流を号す。予は諸流を廃せずして諸流を認めず。』と書いてあります。上泉伊勢守はこれまでに学んだ「念流」「新当流」「陰流」の長所を合わせ、特に「陰流」に強い啓示を受けて「新陰流」を創始したようです。また、陰流の極意は年齢的にも愛洲日向守移香斎の子・平田小七郎宗通から授かったと考えるのが妥当だとされています。
おわりに
上泉伊勢守信綱が「剣聖」として評価されるのも、弟子の柳生がその後、徳川家に仕えて指南役として活躍していったことが大きく影響していると思われます。
しかし、柳生がボロ負け、天皇、将軍から「天下一」と称賛されるほどですから、相当な実力の持ち主であったことは間違いありません。
塚原卜伝を「剣聖」と呼ぶ人もいて、『どっちが本物の剣聖?』となることもありますが、別に二人とも「剣聖」でいいんじゃないでしょうか。
二人とも城主という高い身分でありながら、二人の実績は他と比べて群を抜いていますし、なにより教え方が上手いのか、弟子達がすくすく育っていきます。
この教える技術の高さこそ「剣聖」と呼ばれる所以なのでしょう。
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