はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【門奈正】です。【門奈正】は本間三郎が警視庁の撃剣世話掛を連破した際、唯一の勝ちを収めて面目を守ち、晩年は愛に生きた伝説の剣豪です。それでは【門奈正】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
門奈正
名前:門奈正
流派:水府流、北辰一刀流
出身:常陸国
年代:江戸時代末期~昭和(1855~1929)
獄中で迎えた維新
門奈正は安政2年(1855) に水戸藩で家老を務めた門奈圭齋の三男して生まれました。
門奈家は幕末期、水戸藩の内乱で混乱に巻き込まれ、天狗党の武田耕雲斎に味方した父は獄中で死去、長男の忠直は切腹となります。
そして正と次兄の左近だけが元服前であったことから死罪を免れ、元治元年(1864)から約5年間、座敷牢に幽閉されました。
正は牢の中で明治維新を迎え、明治元年(1868)に維新による恩赦で解放されることとなりました。
その後、正は水戸藩校『弘道館』で豊島源八から「水府流」剣術を学び、免許皆伝を受けましたが、明治5年(1872)に『弘道館』が閉鎖されると、以後は農業に従事したといいます。
明治15年(1882)に正は一念発起し、元水戸藩の剣術指南役であった小澤寅吉の道場『東武館』に入門して「北辰一刀流」の免許皆伝を受けました。
また、寅吉の長男・一郎からは「新田宮流」の抜刀術を学び、これも免許皆伝となり、この時期に生涯の友・内藤高治と出会って友好を育んでいます。
警視庁の面目
明治18年(1885)、もともと『玄武館』の塾頭だった茨城県警察の撃剣師範・下江秀太郎が『東武館』に招かれ、正は剣術を指南を受けました。
そしてこの縁がもとで明治21年(1888)、警視庁の撃剣世話掛となった下江秀太郎の招きで、正は警視庁に出仕して同じく撃剣世話掛となります。
また、同年に内藤高治も警視庁に出仕し、下江秀太郎の斡旋で二人は同じ警察署に配属となりました。
その後、正は「下江の技を最も受け継いだ者」と評されるようになり、明治25年(1892)には撃剣世話掛副主任に就任しました。
明治26年(1893)、正は「香取神道流」の17世・飯篠盛貞の道場で手合わせを求めましたが、同流は他流試合を禁じているために断られてしまいます。
しかし、飯篠盛貞から「北辰一刀流」の道場を開いている豪農宅を紹介され、正はそこで100人を相手にして9時間連続の立ち切り稽古を行いました。
また、同年に「本間念流」の本間三郎が警視庁を相手に試合を求め、内藤高治、得能関四郎、柴田衛守ら撃剣世話掛がことごとく負けてしまいます。
正も最初は本間三郎の前に敗北を喫しましたが、再試合で勝ちを収め、警視庁唯一の勝利として何とか面目を保ちました。
「技の門奈」と愛子
明治27年(1894)、日清戦争が勃発すると警視庁の撃剣世話掛たちは朝鮮の居留民保護のために派遣されました。
この時、正は平壌の戦いで清国兵28人を斬ったといいます。
明治32年(1899)、これまで行動を共にしてきた内藤高治が警視庁を退職し、京都の大日本武徳会本部教授に就任しましたが、正は警視庁を辞めずに横浜に道場『常陽館』を開き、大日本武徳会神奈川支部の設立に協力していきました。
8年後、「東の高野、西の内藤」と称され、大日本武徳会の顔となっていた内藤高治の招きに応じ、正は京都本部教授に就任しました。
その後、「技の門奈、気の内藤」と並び称されて大日本武徳会の看板を背負った正は、剣道形制定のため委員会が発足した時に主査の一人に抜擢され、大日本帝国剣道形を発表後には範士号を授与されました。
大正8年(1919年)、正は突如として大日本武徳会本部を解任されます。
妻・浪子に先立たれていた正が37歳年下の女性・愛子と恋仲になったため、綱紀粛正に力を入れていた副会長・西久保弘道が解任決定したといわれています。
本部を解任された正はその後は、愛知支部の教授となって名古屋に移住し、学校等でも指導するなど剣道を続けました。
私生活ではこれまでの個人的な交際を拒絶し、「門奈失脚の原因」として世間から好奇の目に晒されていた愛子と静かに過ごしていたといいます。
しかし、そんな中にあっても「技の門奈」の剣名は衰えることがなく、「高野佐三郎、内藤高治より大いに勝れていた。65歳くらいが盛りだったと思う」などと、この頃の正を最大限評価した者もいました。
そして大正13年(1924)、正は宮内省主催の『済寧館』台覧試合で高橋赳太郎と試合を行います。
この時、二人は一度も技を出さずに引き分けとなり、この試合は「技を超えた達人」同士の試合として伝説となりました。
正は昭和4年(1929年)に宮中天覧試合で審判員を務めた後、75歳で死去しました。
愛子は京都南禅寺に正と浪子の墓を建立して消息を絶ち、昭和52年(1977)に85歳で亡くなりました。
愛子の墓は、正、浪子夫妻の墓に並んで建てられています。
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