はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【松崎浪四郎】です。【松崎浪四郎】は江戸の有名剣豪たちと試合を行って「九州一の剣豪」として名を知られていった伝説の剣豪です。それでは【松崎浪四郎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
松崎浪四郎
名前:松崎浪四郎、松崎直之
流派:加藤田神陰流、一刀正伝無刀流
出身:筑後国
年代:江戸時代末期~明治時代(1833~1896)
九州一の剣豪
松崎浪四郎直之は天保4年(1833)に久留米藩藩士・松崎八右衛門の子として生まれました。兄には儒学者となった宇左ヱ門がいます。
弘化元年(1844)、浪四郎は加藤田神陰流の加藤田平八郎と宝蔵院流槍術の森平右衛門に入門すると、4年後に神陰流の免許を、5年後には宝蔵院流の免許を受けました。
そしてさらに研鑽を積んだ波四郎は、安政元年(1854)に神陰流奥免許を受け、武者修行の旅に出発します。
九州で相手として選んだのは、大村藩で剣術指南役として仕えていた斎藤歓之助。
斎藤歓之助は江戸三大道場と謳われた『練兵館』の創設者・斎藤弥九郎の次男で力強い突きで相手をなぎ倒し、『鬼歓』と恐れられた人物でした。
試合では、最初に斎藤歓之助が上段から強烈な突きを繰り出し、思わず浪四郎はのけぞります。
さらに、ここぞとばかりに突っ込んでる斎藤歓之助に体当たりを食らわされ、浪四郎は転倒寸前。
このまま転倒し竹刀を振り下ろされれば負けてしまうというところで、浪四郎は体が泳がせながらも捨て身の胴を打ち込みました。
この一本が見事に決まり、浪四郎は勝利。
こののち『鬼歓』を破った男として浪四郎は『九州一の剣豪』と呼ばれるようになりました。
翌年、浪四郎はさらなる強敵を求めて江戸へ。
岡藩江戸藩邸で行われた試合では『位の桃井』こと「鏡新明智流」の桃井春蔵を破る大金星をあげ、さらに斎藤歓之助の兄である斎藤新太郎に勝利します。
そして浪四郎は桃井の雪辱を果たそうとした『桃井の四天王』上田馬之助には引き分け、『技の千葉』こと「北辰一刀流」の千葉栄次郎にこそ敗れたものの、その名を江戸中に轟かせました。
また、この時の活躍がもとで山岡鉄舟と友好を結んでいます。
明治の剣豪として
その後、浪四郎は幕末の動乱の中で戊辰戦争に参加し、明治維新後は久留米藩の剣術指南役に就任。
廃藩置県後には三潴県(のちに福岡県と合併)で要職を務め、西南戦争の田原坂の戦いに参加したともいわれています。
明治17年(1884)、浪四郎は山岡鉄舟の要請により上京し、公家の鷲尾隆聚の道場『明鏡館』を預かりました。
浪四郎は皇宮警察の道場『済寧館』で斎藤歓之助の弟子・渡辺昇と立ち合い、上田馬之助とも再戦し、さらに警視庁巡査本部道場で開かれた大会に飛び入り出場するなど精力的に試合に参加。
どんな相手でも最初の一本は必ず浪四郎が取ったと言われ、その強さに一同は感服したといいます。
また、浪四郎は山岡鉄舟に勝利を収めたことをきっかけに、流派を山岡鉄舟の「一刀正伝無刀流」に改めて宮内省の道場『済寧館』で剣術を教えました。
翌年、伊藤博文邸での天覧試合で宮内省剣術の名誉をかけて警視庁剣術の逸見宗助と試合し、勝利を収めた浪四郎はその後に辞職して帰郷。
福岡に戻った浪四郎は看守副長などを務めながらも試合には参加し続け、高山峰三郎、奥村左近太らと名勝負を繰り広げました。
明治29年(1896)、京都の自宅で死去。享年64歳。
おわりに
斎藤新太郎、斎藤歓之助を破って練兵館『力の斎藤』、さらに桃井春蔵を破って士学館『位の桃井』を撃破している松崎浪四郎。
残すは千葉周作の玄武館『技の千葉』さえ破れば、江戸三大道場完全制覇だったのに実にもったいない。
まぁ、相手が悪すぎましたよね。千葉栄次郎はそこいらのボンボン剣士とは違う本物の天才剣士ですからしょうがないっすよ。
明治に入ってからも剣の道を追い求めた人物はたくさんいますが、有名剣豪と試合を実際にやってきた浪四郎の経験談は、きっと他の人には「伝説」のように受け止められていたでしょうね。
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