弘化元年(1844)、浪四郎は加藤田神陰流の加藤田平八郎と宝蔵院流槍術の森平右衛門に入門すると、4年後に神陰流の免許を、5年後には宝蔵院流の免許を受けました。

そしてさらに研鑽を積んだ波四郎は、安政元年(1854)に神陰流奥免許を受け、武者修行の旅に出発します。

九州で相手として選んだのは、大村藩で剣術指南役として仕えていた斎藤歓之助

斎藤歓之助は江戸三大道場と謳われた『練兵館』の創設者・斎藤弥九郎の次男で力強い突きで相手をなぎ倒し、『鬼歓』と恐れられた人物でした。

試合では、最初に斎藤歓之助が上段から強烈な突きを繰り出し、思わず浪四郎はのけぞります。

さらに、ここぞとばかりに突っ込んでる斎藤歓之助に体当たりを食らわされ、浪四郎は転倒寸前。

このまま転倒し竹刀を振り下ろされれば負けてしまうというところで、浪四郎は体が泳がせながらも捨て身の胴を打ち込みました。

この一本が見事に決まり、浪四郎は勝利。

こののち『鬼歓』を破った男として浪四郎は『九州一の剣豪』と呼ばれるようになりました。

 

翌年、浪四郎はさらなる強敵を求めて江戸へ。

岡藩江戸藩邸で行われた試合では『位の桃井』こと「鏡新明智流」の桃井春蔵を破る大金星をあげ、さらに斎藤歓之助の兄である斎藤新太郎に勝利します。

そして浪四郎は桃井の雪辱を果たそうとした『桃井の四天王』上田馬之助には引き分け、『技の千葉』こと「北辰一刀流」の千葉栄次郎にこそ敗れたものの、その名を江戸中に轟かせました。

また、この時の活躍がもとで山岡鉄舟と友好を結んでいます。