はじめに
この記事ではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【樋口十郎兵衛】です。【樋口十郎兵衛】は守って負けを認めさせる「不殺の剣」を説いた馬庭念流の伝説の剣豪です。それでは【樋口十郎兵衛】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
樋口十郎兵衛
名前:樋口十郎兵衛定暠
流派:馬庭念流
出身:上野国
年代:江戸時代中期(?~?)
最盛期を迎えた古流・馬庭念流
樋口十郎兵衛は「馬庭念流」を継承する樋口家の13代目・樋口十郎右衛門将定の子として生まれました。
「馬庭念流」は念阿弥慈恩を祖として古伝の剣術を伝える古い流派でしたが、父は赤穂浪士で有名な堀部安兵衛にも剣を教えるなどして道場剣術が全盛期を迎える江戸時代後期にあっても人気を博し、代々の宗家は江戸に出張道場を構えて教授を行っていました。
十郎兵衛も父から「馬庭念流」を引き継ぐと、江戸京橋太田屋敷に出張道場を開いて門弟数千人を集め、江戸の諸侯からも教えを求める者が多かったといいます。
さらに十郎兵衛は弟・樋口次郎太夫定張にお玉が池と小石川の道場を任せ、四六時中竹刀の音が絶えない道場チェーンとして「馬庭念流」の最盛期を作りました。
馬庭念流の教え『念流兵法心得』には「当流稽古の仕様は、負ける所を勧めて勝つ所を知るの修行なり。目前の勝を嫌うには非ざれども、始終の勝を勝ちとす。心得べし」とあります。
これは相手を打ち倒すのではなく、守りの剣をもって相手に負けを認めさせる剣の教えであり、『不殺の剣』または『護身の剣』とも言える剣術でした。
現代にも続く剣術へ
ある日、幕府閣僚の松平越後守(宣富?)は「馬庭念流」が他流の剣術とは違って実用的であると評価し、自宅に十郎兵衛を招いて兵法が見たいと申し入れます。
十郎兵衛はこのとき94歳でしたが、孫婿の樋口勇蔵定雄を連れて御前に参上し「馬庭念流」の組太刀を演じました。
越後守が剣の奥義を尋ねると、十郎兵衛は「剣の道 わざをつとめておのずから 業を離れて 業にこそあれ」と歌を詠んで答えたといいます。
こののち十郎兵衛は死去しますが、「馬庭念流」は長男の樋口十郎右衛門定広が15代目を相続し、祖父と共に演武を披露した16代目・定雄と小石川の道場で多くの弟子を育てました。
後世、18代目・樋口定伊も水戸藩・徳川斉昭に招かれて演武を披露し、神田明神下に道場を構えたほか、講武所でも「馬庭念流」を教示しています。
そして講武所では「馬庭念流」は古い伝統を伝える剣術とされながらも、流行りの竹刀稽古の剣士たちを圧倒する強さを発揮して幕末においても剣名を轟かせていったのです。
おわりに
樋口十郎兵衛は長く続く「馬庭念流」の教えを最も体現した剣豪といえるでしょう。
古流でありながらも、江戸時代には数千人もの門弟を持ったというのですから、十郎兵衛が教える『不殺の剣』は江戸の人たちを惹きつけるものがあったということ。
この流派は歴史を駆け抜けてきた「剣豪」たちの技を伝え、今もなおその名を残しているのは素晴らしいことだと思います。
剣豪名をクリックすると個別の剣豪紹介記事が見れます↓