はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【上泉義胤】です。【上泉義胤】は剣聖・上泉伊勢守信綱の孫で、どこか人を食ったところのある居合術に長けた伝説の剣豪です。それでは【上泉義胤】について流派や出身地も含め簡単に説明します。
上泉義胤
名前:上泉権右衛門義胤
流派:無楽流、夢楽流、上泉流、夢想流、民弥流
出身:?
年代:戦国時代~江戸時代初期(1592~1647)
謎多き剣聖の孫
上泉義胤は上泉秀胤の子で『剣聖』と名高い「新陰流」の祖・上泉伊勢守信綱の孫にあたります。
父・秀胤は「新陰流」「上泉流軍法」を継いで佐竹藩に出仕していましたが、義胤には軍法を相伝したものの「新陰流」は授けずに長野無楽斎につかせて居合術を学ばせていました。
「新陰流を継ぐ器量にあらず」というのが、その理由だといいます。
義胤は上泉流軍法師範として備前藩・池田光政に仕えていましたが、のちに職を辞して居合術の修行を行います。
そして武者修行の後に義胤は尾張藩に居合術師範として仕えることになりました。
この頃の尾張藩は尾張柳生の祖となった「柳生新陰流」の柳生兵庫助利厳が剣術師範として活躍していることから、「新陰流」の上泉伊勢守信綱の孫にあたる義胤の出仕には特別の推挙があったと考えられます。
義胤は仕官にあたり、柳生兵庫助の高弟である高田三之丞と立ち合っています。
試合当日、最初は義胤が抜刀できずに高田三之丞が勝ち、そのまま試合は一時中断となりました。
すると義胤は突如、試合会場から姿を消して「逃げたのではないか?」と皆を不安にさせます。
そんな中、義胤は再び姿を現して試合が再開となり、その後の2本は文句なく義胤の勝ちとなりました。
この時、柳生兵庫助が「どこに行っていたのか?」と聞くと、義胤は「厠へ。立派なのが出ました。」と答えたといいます。
義胤はかなり変わった性格だったらしく『岡村新之丞』『民弥権右衛門』などと何度も名前を変え、民弥を名乗った時には流派名も「民弥流」を名乗りました。
この「民弥流」は現代にも「民弥流居合」として伝わっています。
正保4年(1647)に没したといいますが、墓所なども分かっておらず、謎の多い剣豪となっています。
おわりに
上泉義胤は、あの「剣聖」の孫とは思えないほどの変わり者。試合の途中で「でっかいウンチがでたよ」なんて普通は言わないよ。
こんな性格だから、父から新陰流を教えてもらえなかったのだろうか。
しかし、腐っても上泉。柳生新陰流を破って尾張徳川藩の居合術師範になるところはさすがです。
超サラブレットなんだから、真面目にやってりゃ「伊勢守の再来」とか言われていたかもしれない。
剣豪名をクリックすると個別の剣豪紹介記事が見れます↓