はじめに
この記事ではシーリズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【林崎甚助】です。【林崎甚助】は一瞬のうちに勝負を決する「居合」の始祖として有名な伝説の剣豪です。それでは【林崎甚助】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
林崎甚助
名前:林崎甚助重信
流派:神夢想林崎流
出身:出羽国
年代:戦国時代~江戸時代初期(1542~1621)
抜刀術へのこだわり
林崎甚助は天文11年(1542)に浅野数馬の子として出羽国楯岡に生まれ、幼名を民治丸といいました。
経緯は分かりませんが、民治丸が6歳の時に父は坂一雲斎という者に恨みを持たれ、林崎明神の祠守と碁を打った帰り道に闇討ちに遭って命を落とします。
このため民治丸は楯岡城の武術指南役・東根刑部太夫のもとで武術修行に励み、たびたび故郷の林崎明神に通っては剣の上達と父の仇討ちを祈願していました。
弘治2年(1556)、民治丸は百日参籠を行った際、夢の中でついに抜刀についての神伝『秘術卍抜』を授かります。
そして民治丸は父の仇討ちを果たすため、その後もひたすら修行を続け、己の抜刀術に磨きをかけていきました。
まだまだ少年であった民治丸は力での勝負は分が悪いと考え、一瞬で勝負を決める抜刀術にこだわりを持っていたといいます。
居合の創始者へ
永禄2年(1559)、民治丸は元服して自ら編み出した抜刀の技を「神夢想林崎流」を称し、故郷の林崎を姓にして林崎甚助重信を名乗りました。
そして仇敵・坂一雲斎を探す旅に出発し、2年後の永禄4年(1561)に19歳となった甚助は長年の修行の甲斐あって仇討ちを果たすことができました。
場所は京の坂一雲斎の自宅であったとか、清水寺付近であったとか、様々な説がありますが、京で本懐を遂げたことは間違いありません。
この仇討ちののあと母の待つ林崎に帰った甚助は、林崎明神を詣でて成就の報告を行い、信国の太刀を奉納したと伝わっています。
その後、甚助は己の技にさらなる磨きをかけるため、再び故郷を離れて諸国を廻りました。
甚助はこの廻国修行中、塚原卜伝より「鹿島新當流最高秘伝天下第一之剣」「卜伝一之太刀」を授かっています。
また、修行の傍ら多くの弟子を育てていて、その途中で加藤清正に招かれ加藤家の家臣を指南したといいます。
そして甚助は、のちに「田宮流」を興した田宮平兵衛や片山伯耆守久安にその術を教えると、晩年は山形に住み故郷で死去しました。
田宮平兵衛や片山久安に伝えられた甚助の抜刀術は、その後の剣術に「居合」という新しい風を起こしていくことになっていきます。
おわりに
林崎甚助は「居合」という一つの技に特化した剣豪で、その道の人にとっては正に神様のような存在。
実際の甚助の抜刀がどんな技だったのかは分かりませんが、幼い頃よりこだわってきた抜刀術は、きっととんでもない「神速の剣」だったはず。
現在の居合の流派を遡ると必ずこの甚助に行き当たるといいますが、父の仇討ちのために磨いた技がここまで広まっていったとは本人も予想もしてなかったでしょうね。
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