伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介【林崎甚助】日本最強は誰?流派は?

      2018/03/16

はじめに

伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。

日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【林崎甚助】です。

【林崎甚助】は一瞬のうちに勝負を決する「居合」の始祖として有名な伝説の剣豪です。

では【林崎甚助】について流派や出身地も含め簡単に説明します。

 

 

出典:http://www.baike.com/

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 林崎甚助

名前:林崎甚助重信

流派:神夢想林崎流

出身:出羽国

年代:戦国時代~江戸時代初期(1542~1621)

 

林崎甚助は、浅野数馬の子として出羽国楯岡に生まれ、幼名を民治丸といった。

経緯は分からないが、父・数馬は坂一雲斎という者に恨みを持たれ、天文16年(1547)に林崎明神の祠守と碁を打った帰り道、闇討ちされて命を落としたという。

6歳で父を失った民治丸は、楯岡城の武術指南役・東根刑部太夫について武術修行に励み、たびたび故郷の林崎明神に剣の上達と父の仇討ちを祈願していた。

そして弘治2年(1556)、民治丸は百日参籠を行った際、夢の中でついに抜刀についての神伝「秘術卍抜」を授かった。

 

その後も父の仇討ちを果たすため、ひたすら修行を続けた民治丸は、己の抜刀術に磨きをかける。

まだまだ少年であった民治丸は、力での勝負は分が悪いと考え、一瞬で勝負を決める抜刀術にこだわりを持っていたという。

 

 

出典:https://www63.atwiki.jp/

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永禄2年(1559)、民治丸は元服して自ら編み出した抜刀の技を「神夢想林崎流」を称し、故郷の林崎を姓にして林崎甚助重信を名乗った。

そして仇敵・坂一雲斎を探す旅に出発し、2年後の永禄4年(1561)に19歳となった甚助は、長年の修行の甲斐あって仇討ちを果たすことができた。

場所は京の坂一雲斎の自宅であったとか、清水寺付近であったとか、様々な説があるが京で本懐を遂げたことは間違いないらしい。

 

その後、母の待つ林崎に帰った甚助は、林崎明神を詣でて成就の報告を行い、信国の太刀を奉納したと伝わる。

そして甚助は己の技にさらなる磨きをかけるため、再び故郷を離れて諸国を廻った。

甚助はこの廻国修行中、塚原卜伝より「鹿島新當流最高秘伝天下第一之剣」、卜伝一之太刀を授かっている。

 

また、修行の傍ら幾多の弟子を育てていて、その途中で加藤清正に招かれ加藤家の家臣を指南したという。

そして甚助はのちに田宮流を起こした田宮平兵衛や、片山伯耆守にその術を教えると、晩年は山形に住み故郷で没した。

田宮や片山に伝えられた抜刀術は、その後日本の剣術に「居合」という新しい風を起こしていくことになる。

 

 

出典:https://ameblo.jp/tetu522/

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林崎甚助は「居合」という一つの技に特化した剣豪で、その道の人にとっては正に神様のような存在。

実際の甚助の抜刀がどんな技だったのかは分かりませんが、幼い頃よりこだわってきた抜刀術は、きっととんでもない「神速の剣」だったはず。

現在の居合の流派を遡ると、この甚助に行き当たるといいますが、父の仇討ちのために磨いた技が、ここまで広まっていったとは本人も予想もしてなかったでしょうね

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