伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介【柳生兵庫助】日本最強は誰?流派は?

   

はじめに

伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。

日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【柳生兵庫助】です。

【柳生兵庫助】は柳生石舟斎の孫で柳生新陰流の正統後継者とされる伝説の剣豪です。

では【柳生兵庫助】について流派や出身地も含め簡単に説明します。

 

 

出典:http://unblamableness56.rssing.com/

スポンサーリンク

柳生兵庫助 

名前:柳生兵庫助利厳

流派:柳生新陰流

出身:大和国

年代:戦国時代~江戸時代初期(1579~1650)

 

柳生兵庫助は、柳生新陰流を創始した柳生石舟斎の孫にあたる。

石舟斎の嫡男・厳勝は戦場で受けた傷によって歩行困難であったため、家督を相続することはできず、兵庫助が誕生した時には既に隠居状態にあったと伝わっている。

剣術を諦めなければならなかった父に代わり、兵庫助は石舟斎に可愛がられて新陰流の手ほどきを受けていた。

そのためか、兵庫助は石舟斎に資質、兵法が極めて似ていると評され、石舟斎もそれを喜んで一層の教授を行ったという。

 

徳川家康が、柳生宗矩を兵法指南役に迎えたことが世に知れ渡ると、柳生新陰流の評価は急上昇。

宗矩の8歳年下、石舟斎の嫡孫・兵庫助を求める者が声が後を絶たなかった。

特に熊本の加藤清正は熱心に懇願していた。

そして、兵庫助の気性を心配して手元から離すのを渋っていた石舟斎も、ついに清正の求めを断り切れなくなり、兵庫助は熊本に向かった。

この際、石舟斎は「兵庫助は短慮であるから、どんなことをしでかそうとも、死罪3回分までは必ず許してあげて欲しい」と条件付きで承諾したという。

 

 

出典:http://maron-no-kakurega.com/

スポンサーリンク

 

 

熊本藩に召し抱えられた兵庫助であったが、石舟斎の不安は的中した。

肥後でキリシタン一揆が発生した時、兵庫助は清正の意を受けて鎮圧に向かったが、先発で鎮圧に向かっていた清正の家臣と口論となった。

そして総攻撃を主張する兵庫助に、その家臣が反対したために斬り捨て、独断で一揆勢に総攻撃を仕掛けて鎮圧する。

しかし兵庫助は、そのまま暇を乞うて清正のもとを去っていった。

 

その後、兵庫助は諸国を巡る武者修行の旅に出かけた。

時々は柳生庄に帰っていたようだが、足かけ12年以上の修行の旅であった。

この武者修行の間、死期を察した石舟斎から印可状と「柳生の大太刀」を授与され、また熊野では棒庵入道より新當流の薙刀、槍術における「唯授一人」の印可を授けられている。

 

元和元年(1615)、尾張藩藩主・徳川義直の宿老・成瀬隼人正の勧めで兵庫助は大御所・徳川家康に拝謁。

義直の師範となるよう直々に要請された兵庫助は、「江戸の但馬(宗矩)とは違い、兵法以外の御奉公は一切御免こうむりたい」と述べた。

こうして兵庫助は、叔父・柳生宗矩のような兵法以外の政治的活躍を一切拒否し仕官することになった。

その後、尾張名古屋の兵庫助を訪ねて試合を挑む武芸者も多かったが、兵庫助はその試合のほとんどを小太刀で応じ、「おいとしぼう(お気の毒に)」という掛け声とともに相手に勝ったという。

尾張藩に仕えて5年後の元和6年(1620)、兵庫助は義直を新陰流の剣術および新當流の槍、長刀の印可を授与。

この時、兵庫助は自身が祖父と師・棒庵から受け継いだ印可状、伝書、目録、大太刀の全てを義直に進上した。

この後、尾張柳生の後継者となる三男・連也が印可を受ける際は、義直から相伝を受ける形を取らせた事で、柳生新陰流は尾張藩「御流儀」として伝わり地位を不動のものとしていった。

 

 

出典:https://www.instagram.com/

スポンサーリンク

江戸にいる宗矩には授けなかった「柳生の大太刀」は、この甘やかされた兵庫助に授けられました。

剣豪・石舟斎もやはり人の子。自分の孫には甘かったようw

きっと、この人はお爺ちゃんから褒めて伸ばされる教育を受けて、周りの人とうまくコミュニケーション取れなかったんじゃないかな~。

腕も立つし、柳生の御曹司とくれば、他の奴なんてザコどころかゴキブリ以下ですよねw

そんな、ゆとり教育の中にあっても兵庫助は、やっぱり柳生新陰流正統後継者。

剣のみに生きる人生を選んでいるところはご立派です!

スポンサーリンク

 - 伝説の剣豪