はじめに
この記事ではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【柳生兵庫助】です。【柳生兵庫助】は柳生石舟斎の孫で柳生新陰流の正統後継者とされる伝説の剣豪です。それでは【柳生兵庫助】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
柳生兵庫助
名前:柳生兵庫助利厳
流派:柳生新陰流
出身:大和国
年代:戦国時代~江戸時代初期(1579~1650)
石舟斎の嫡孫として
柳生兵庫助は「柳生新陰流」を創始した柳生石舟斎宗厳の孫にあたる人物。
石舟斎の嫡男・厳勝は戦場で受けた傷によって歩行困難であったため、家督を相続することができず、兵庫助が誕生した時には既に隠居状態にありました。
このため兵庫助は、剣術を諦めなければならなかった父に代わって石舟斎から直々に「新陰流」の手ほどきを受けていました。
兵庫助は石舟斎に資質、兵法が極めて似ていると評され、石舟斎もそれを喜んで一層の教授を行ったといいます。
やがて徳川家康が叔父・柳生宗矩を兵法指南役に迎えたことが世に知れ渡ると「柳生新陰流」の評価は急上昇し、宗矩の8歳年下である兵庫助を求める者が声が後を絶ちませんでした。
石舟斎は兵庫助の気性を心配して手元から離すのを渋っていましたが、熊本の加藤清正は熱心な懇願には断り切れなくなり、兵庫助は熊本に向かうことになります。
この際、石舟斎は「兵庫助は短慮であるから、どんなことをしでかそうとも、死罪3回分までは必ず許してあげて欲しい」と条件付きで承諾したといいます。
修行の旅へ
熊本藩に召し抱えられた兵庫助でしたが、石舟斎の不安は的中します。
肥後でキリシタン一揆が発生した時、兵庫助は清正の意を受けて鎮圧に向かいました。
すると戦場に到着した兵庫助は総攻撃を主張して先発隊の加藤家家臣と口論となり、その者を斬り捨てて独断で総攻撃を仕掛けて鎮圧しました。
そして兵庫助は、そのまま暇を乞うて清正のもとを去っていったのです。
その後、兵庫助は諸国を巡る武者修行の旅に出かけました。
時々は柳生庄に帰っていたようですが、足かけ12年以上の修行の旅であったようです。
この武者修行の間、死期を察した石舟斎から印可状と『柳生の大太刀』を授与され、また熊野では棒庵入道より「新當流」の薙刀、槍術における『唯授一人』の印可を授けられています。
尾張柳生
元和元年(1615)、尾張藩藩主・徳川義直の宿老・成瀬隼人正の勧めで兵庫助は大御所・徳川家康に拝謁しました。
兵庫助は義直の師範となるよう直々に要請されましたが、「江戸の但馬(柳生宗矩)とは違い、兵法以外の御奉公は一切御免こうむりたい」と述べ、宗矩のような兵法以外の政治的活躍を一切拒否して仕官することになりました。
その後、尾張名古屋の兵庫助を訪ねて試合を挑む武芸者も多くいましたが、兵庫助はその試合のほとんどを小太刀で応じ、「おいとしぼう(お気の毒に)」という掛け声とともに悉く勝ったといいます。
尾張藩に仕えて5年後の元和6年(1620)、兵庫助は義直を「新陰流」の剣術および「新當流」の槍、長刀の印可を授与しました。
この時、兵庫助は自身が祖父と師・棒庵から受け継いだ印可状、伝書、目録、大太刀の全てを義直に進上しました。
この後、尾張柳生の後継者となる三男・柳生連也が印可を受ける際は、義直から相伝を受ける形を取らせた事で、「柳生新陰流」は尾張藩の『御流儀』として伝わり地位を不動のものとしていくのです。
おわりに
石舟斎は江戸にいる宗矩には授けなかった『柳生の大太刀』を、甘やかして育てた兵庫助に授けました。
剣豪・石舟斎もやはりもやはり人の子。自分の孫には甘かったようです。
きっと、この人はお爺ちゃんから褒めて伸ばされる教育を受けて、周りの人とうまくコミュニケーションが取れない人物だったのでは?
腕も立つし、柳生の御曹司とくれば、他の奴なんてザコどころかゴキブリ以下ですよ。
そんな、ゆとり教育の中にあっても兵庫助は、やっぱり正当な柳生新陰流の後継者。
最後まで剣のみに生きる人生を選んでいるところはご立派です!
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