はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【高橋泥舟】です。【高橋泥舟】は「槍の伊勢守」、また「幕末の三舟」の一人として有名な誰からも愛された伝説の剣豪です。それでは【高橋泥舟】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
高橋泥舟
名前:高橋泥舟、高橋精一郎、高橋伊勢守
流派:自得院流、忍心流
出身:江戸
年代:江戸時代後期~明治時代(1835~1903)
槍の伊勢守
高橋泥舟は天保6年(1835)に旗本・山岡正業の次男として生まれました。
母方を継いで高橋包承の養子となった泥舟は、生家の山岡家の長兄・山岡静山に就いて槍を修行し、天性の才と努力で『海内無双』『神業』とまで呼ばれるほどになりました。
やがて剛直で一本気な人格が周りから高く評価された泥舟は、幕府が武術奨励のために設立した講武所の槍術師範に抜擢されます。
そして泥舟は一橋慶喜(のちの徳川慶喜)に随行して上京するなどして「従五位下伊勢守」を与えられるほどの信任を得ました。
泥舟の幕末
順風満帆に幕府での地位を固めていた泥舟でしたが、文久3年(1863)に清河八郎が献策した浪士組が結成され、その取締役となると状況は一変。
上洛した浪士組は京都に着くと清河八郎が尊王攘夷を掲げて混乱し、泥舟は共に取締役となっていた義弟の山岡鉄舟と共に責任を負わされて謹慎となってしまったのです。
その後、しばらく泥舟は幽閉状態にありましたが、慶応2年(1866)に幕府から呼び出されると新設の遊撃隊の頭取、槍術教授頭取を命じられ、幕臣として復帰を果たします。
しかし、泥舟は鳥羽・伏見の戦いで敗戦すると新政府には恭順するしかないと考え始めました。
そして泥舟は江戸に戻って来た徳川慶喜に恭順を説き、慶喜の謹慎先である上野寛永寺を護衛する役目に就きました。
やがて新政府軍が江戸に迫ると、勝海舟は泥舟の誠実剛毅な人格を見込んで新政府軍との折衝役に選ばれます。
しかし、泥舟は慶喜から親身に頼られる存在であったため、江戸の不安な情勢の中で主君の側を離れることができず、代わりに山岡鉄舟を推薦し、江戸城無血開城は成し遂げられました。
槍のように
その後、泥舟は徳川家が江戸から静岡に移住するのに従って地方奉行などを務め、廃藩置県後は職を辞して東京に隠棲して穏やかな後半生を送りました。
誰からも人柄を愛された泥舟は、山岡鉄舟が亡くなったときも山岡家に残っていた借金の返済のために「この顔が担保でござる」と言って金貸しに借用を頼み、「高橋様なら決して人を欺くことなどないでしょう」と引き受けてもらった逸話を残しています。
のちに勝海舟は「あれは大馬鹿だよ。物凄い修行を積んで槍一つで伊勢守になった男さ。あんな馬鹿は最近見かけないね」と言っていますが、これは槍のように真っすぐに生きた泥舟の生き方を賞賛した言葉だと言われています。
おわりに
勝海舟、山岡鉄舟と共に「幕末の三舟」の一人として愛されていた高橋泥舟。
あの気難しい徳川慶喜から信任も得ることができたのは、愚直なまでに人を裏切らない誠実な人物だったからでしょう。
どこまでの実力があったのかは分かりませんが、「槍の伊勢守」として真っすぐに人の心を刺すことができた泥舟は後世に語り継がれるべき隠れた剣豪と言っていいのではないのでしょうか。
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