はじめに
伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【高山峰三郎】です。【高山峰三郎】は当時、隆盛を誇っていた警視庁の剣術に殴り込み、36連勝というとんでもない伝説を残した剣豪です。それでは【高山峰三郎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
高山峰三郎
名前:高山峰三郎
流派:直心影流
出身:伊予国
年代:江戸時代末期~明治時代(1835~1899)
籠手田との出会い
高山峰三郎は天保6年(1835)に伊予国で大洲藩士の子として生まれました。
7歳の頃、儒学で藩に仕えていた父が江戸に出たため、峰三郎は江戸で「直心影流」の藤川貞近に入門して剣術と出会いました。
その後、「直心影流」を修めた峰三郎は、「忠也派一刀流」近藤弥之助や「北辰一刀流」塚田孔平からも学び、「鏡心明智流」の桃井春蔵の道場『士学館』に入門します。
慶応元年(1865)、士学館での同門・上田馬之助が新両替町の料亭で天童藩士と喧嘩になり、2人を斬殺する事件を起こして現場が新徴組に封鎖されました。
この時、峰三郎は夕食の買物をしていて上田馬之助を心配したが、士学館に通う顔見知りの新徴組隊士から無事を伝えられてホッとしていたといいます。
その後、京都へ出た峰三郎は「直心影流」戸田一心斎の道場の師範代となります。
戸田道場は武家から素性の怪しい者が集まる門人1,000人を超えた巨大道場。
ここで峰三郎は藩命で京都を偵察していた平戸藩士・桑田源之丞(のちの籠手田安定)に出会いました。
伝説の36連勝
明治元年(1868)、峰三郎は松江藩に剣術師範として招かれましたが、やがて廃藩置県によって解雇。
その後、峰三郎は滋賀県大津で路頭に迷っているときに、桑田源之丞と再会しました。
すると滋賀県権令にまで出世していた桑田源之丞のおかげで、峰三郎は滋賀県警察部の一等巡査に採用されます。
さらに明治13年(1880)には大津に道場『養勇館』が完成し、峰三郎はここの長を任されました。
明治16年(1883)、東京の地方官会議が開かれることとなり、籠手田安定(桑田源之丞から改名)出席のために上京。
この時、籠手田安定は関西で鍛えぬいた峰三郎ら約10名の剣士を引き連れ、隆盛を誇っていた警視庁に試合を挑みました。
ここで峰三郎は得能関四郎ら警視庁の撃剣世話掛36名を連破する活躍をして話題となり、最終日の逸見宗助との試合には警視総監・樺山資紀も観戦に訪れたといいます。
結果、峰三郎は逸見宗助には敗れたものの、36連勝という大記録で明治剣道会に名を轟かせることになったのです。
その後、警視庁主催の撃剣大会に呼ばれることとなった峰三郎は、翌年に逸見宗助にも勝利して全勝。
明治18年(1885)に籠手田安定が島根県知事となると、峰三郎も島根県に呼ばれて島根県御用掛となり、警察や監獄で剣術を教授しました。
また、明治24年(1891)には、兵庫県庁で開かれた撃剣大会で松崎浪四郎に勝利し、兵庫県知事から白鞘の短刀を授与されています。
しかし、名剣士として有名となった峰三郎は、このあと大阪府警察部に転任することなり、徐々に籠手田安定とは疎遠になっていきました。
剣士生命を終わらせた籠手田
明治29年(1896)、滋賀県知事に再任した籠手田安定が大津で撃剣大会を開催し、峰三郎も招かれました。
試合前夜、久しぶりに籠手田安定に会った峰三郎は、もう一度下で働きたいと願い出ます。
しかし、籠手田安定は「明日、小関教政に勝ったら考える」と返答しました。
これを聞いた峰三郎は憤然として席を立ち、翌日には酒気を飲んで試合会場に現れ、小関教政に敗北。
それもそのはず当時の峰三郎が62歳、対する小関教政は25歳。
これで剣士生命を終えた峰三郎は明治32年(1899)に大阪で死去しました。享年65。
その後、峰三郎を破った小関教政は大日本武徳会本部教授に就任。
峰三郎との試合について「今日の地位を得ることになった大切の試合」と語っています。
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