はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【関口氏業】です。【関口氏業】は今も伝承される「関口流」を世に広めた伝説の剣豪です。それでは【関口氏業】について流派や出身地も含め簡単に説明します。
関口氏業
名前:関口八郎左衛門氏業
流派:関口流
出身:紀伊国
年代:江戸時代(1630~1716)
名門出身の傾奇者
関口八郎左衛門氏業は「関口流」の開祖である父・関口氏心(柔心)の長子として紀伊国に生まれました。
関口家は今川氏の分家で、代々宗家の今川家に仕えていましたが、徳川家康の正室・築山殿が関口氏の出身であったことから、桶狭間の戦い以降の今川氏の没落とともに今川氏真との関係が悪化し、徳川氏に仕えるようになっていました。
父・氏心は幼少の頃より武芸・組討に優れていて、廻国修行の末に「神夢想林崎流」の林崎甚助の抜刀術、「三浦流柔術」の三浦義辰、さらに長崎では拳法を学んでいました。
そして氏心は屋根から落ちる猫を見て開眼し、自ら屋根から落ちるという修行の末に高度な受け身を極め、柔術の流派である「関口新心流」を開きました。
その後、氏心は紀州徳川家の柔術指南役として徳川頼宣に仕え「関口新心流」は紀州藩の御流儀となりました。
しかし、その子・氏業は親の七光りで厚遇されることを潔しとせず、自分は自分の価値で知行をもらうべきと、指南役としての不自由ない暮らしを捨てて諸国修行の旅に出ました。
名門ともいえる氏業ですが、その身なりはかなりカブキ者ものだったらしく、帯には鉄扇を差して3尺3寸の大太刀を腰に下げて歩いていたといいます。
また、あまりに刀が大きく地面に擦るので、鞘の先に小車をつけて引いていたともいわれており、他にもお供の者に派手な着物を着せて髪を伸ばさせ、朱塗りの脇差しを携帯させていたといいます。
師匠としての責任
諸国修行の末、江戸についた氏業は浜松町に道場を構えて「関口流」の指南をはじめました。
氏業は武芸のほかに文才もあって江戸の諸侯から絶大な人気を誇るようになり、信州松代藩主・真田幸道も門弟の一人でした。
しかし、師匠の名声が高まれば高まるほど、周りの者は調子に乗っていくもの。
常に連れて歩いていたド派手な若者・虎蔵の素行は次第に悪くなり、氏業は頭を悩ますようになっていきます。
そして氏業は虎蔵がゆくゆくは大悪党になって「関口流」の恥になるのではないかと考え、ついに虎蔵を斬ることを決心をしました。
いつものように虎蔵を連れ出した氏業は、青山の新坂で一刀両断のもとに斬り殺し、懐紙で刀の血をぬぐいました。
しかし、この氏業が使った懐紙が良くありませんでした。
懐紙は真田幸道から拝領したものであったため、すぐに下手人は真田の手の者との噂が立ってしまったのです。
間もなく、氏業が真田屋敷に指南に赴くと真田幸道から声をかけられました。
「虎蔵はひどい目に遭ったそうだが、不憫なことだ。聞くところによると刀をぬぐった紙がこちらのものであったという。密かに調べさせたがいまだに手がかりはない。先生も、さぞガッカリされているでしょう。心中お察しします」
全てを見透かした上での言葉に、氏業は返答のしようもなく、体よく挨拶だけして帰ったといいます。
氏業は多くの門弟を育て、中でも渋沢伴五郎は江戸で道場を開いて「渋川流」を称しています。
また一方で「関口流」は紀州藩に伝承され続けて、今も関口家によって広められています。
おわりに
父親の七光りを嫌い、自分の価値を見出そうとするストイックさや、弟子の将来を案じて師匠としての責任を果たしたことは素晴らしいと思います。
ちょっと最後はツメが甘いというか、失敗しちゃったところがありますが。
師匠の七光りで勘違いしちゃった弟子に自分の経験からきちんと指導できていれば、こんなことにはならなかったのに。
師匠、弟子、真田の全員が悲しい思いをしてしまった嫌な事件です。
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