はじめに
この記事ではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【得能関四郎】です。【得能関四郎】は明治時代に「籠手打ちの名人」として評価され、また「フロックコートの剣士」として有名になった伝説の剣豪です。それでは【得能関四郎】について流派や出身地も含め簡単に説明します。
得能関四郎
名前:得能関四郎
流派:直心影流
出身:上野国
年代:江戸時代末期~明治時代(1842~1908)
フロックコートの剣士
得能関四郎は天保13年(1842)に上野国沼田藩士・得能隼人の子として生まれました。
生まれは沼田であったとも、江戸の藩邸であったともいわれています。
安政3年(1856)、15歳になった関三郎は江戸で道場を構えていた沼田藩の剣術指南役「直心影流」の長沼恂教のもとに入門し、文久2年(1862)には21歳で免許皆伝を受けました。
明治維新後、東京府の市中取締役となった関三郎は明治13年(1880)に警視局に採用され、剣の腕を見込まれて撃剣世話掛を務めて「警視流」の制定に加わります。
その後の関四郎は柿本清吉や高山峰三郎、松崎浪四郎などと腕を磨き、籠手で勝つことが多かったため「籠手打ちの名人」と言われました。
明治19年(1886)冬、鹿鳴館で開かれた舞踏会で関四郎は外務大臣井上馨の警護中に、木刀や真剣を持った暴漢たち襲われました。
この時、持っていたステッキで応戦した関四郎は得意の籠手で暴漢たちの手首を砕き、11人を逮捕しました。
この事件で関四郎は『フロックコートの剣士』として有名になり、以降は関四郎もあだ名を気に入ってフロックコートを愛用するようになったといいます。
明治28年(1895)、関四郎は大日本武徳会第1回武徳祭大演武会で「奥山二刀流」の奥村左近太に勝利して、同会から第1回精錬証を授与されました。
また、明治36年(1903)には大日本武徳会から第1回範士号を授与され、真貝忠篤、根岸信五郎とともに『東都剣道界の三元老』と称されました。
その後、明治41年(1908)の3月に卒中を患い、病気に苦しめられた関四郎は、7月に自宅の寝室で血まみれになって死亡しているのを発見されました。享年67。
検視の結果、短刀で喉を掻き切ったあと、刃に付いた血を指で拭って鞘に納め、絶命したと判明したそうです。
フロックコート
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