はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【楳本法神】です。【梅本法神】は医術、中国武術まで学んだとされ、人々からは「天狗」と謳われた異能の伝説の剣豪です。それでは【楳本法神】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
楳本法神
名前:楳本法神政武
流派:法神流
出身:加賀国
年代:江戸時代後期(1727~1830)
医術ににも長けた天狗
楳本法神は本姓を富樫といい、加賀藩に仕えて家伝の剣術を伝えていた富樫彦左衛門政高の子であるといわれています。
父・政高は加賀藩内で起こった一向一揆で、防戦及ばず敗退してしまい、その責任から藩を出奔して自害。
この時、15歳だった法神は家を出て西国を放浪し、武者修行を重ねていきました。
この頃、法神は早業を得意とした武術を編み出し『今牛若』と呼ばれていたといいます。
また、剣術の他にも占術にも長じており、上海に渡って中国武術を学んだともいわれています。
晩年、法神は上総国赤城山に住み、武術、医術、農法に長けていたことから地元の人々から敬われて『神仙』『天狗』とも呼ばれていました。
試合においては無類の強さを誇りましたが、法神は常に流血沙汰を嫌って相手を立てることを忘れなかったため、負けた者たちから恨まれることがなく、逆に教えを請われることが多くありました。
そして法神は上総国一円に多くの門弟を育てて、その数は3,000人以上に上ったといわれています。
中でも須田房吉為信、森田与吉吉隆、石田寿吉が高弟であり、彼らは『法神の三吉」と呼ばれ、これに保根村樫山の歌之助を加えて「法神の四天王」とも呼ばれていました。
「法神流」の道統は三吉の一人・須田房吉が継いで前橋紺屋町に道場を開き、さらに江戸に進出して木挽町と赤坂にも道場を開きました。
法神は文政13年(1830)に下田沢村の尾池雅楽之助の家で死去したと伝わり、享年104ともいわれています。
おわりに
戦国時代以前ならまだしも、江戸時代後期に活躍したはずなのに楳本法神の生涯は謎に包まれ、数多くの伝説を残しています。
中には一日30里(約118キロ)を走るともいわれる話から、享年168だったという眉唾物の話まで。
長寿の秘訣は医術に通じていたからかもしれませんが、そんなことは実際はありえませんよね。
「法神」って名前も少し胡散臭い感じがするし、伝説も誇張されすぎて怪しいイメージしかありませんが、実際は庶民たちに人気のあった優しい『天狗』だったから、「ずっと生きていて欲しい」との願いもあって、このような伝説が作られたのではないでしょうか。
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