はじめに
伝説の剣豪・剣士・剣の達人を流派などを含めて紹介していきます。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【中山博道】です。【中山博道】はあらゆる武道を探求し、今日の剣道、居合術の発展に大きく貢献した剣術界のスーパースター、「昭和の剣聖」とされる伝説の剣豪です。【中山博道】については多くの逸話があり全てを紹介しきれませんが、ここでは流派や出身地も含めて簡単に説明していきたいと思います。
中山博道
名前:中山博道
流派:神道無念流
出身:石川県
年代:明治~昭和(1872~1958)
武を極める
中山博道は明治5年(1872)に旧加賀藩士・中山源之丞の八男として石川県金沢市に生まれました。
中山家は明治維新の混乱で没落して富山に移住しましたが、そこで博道は商家へ丁稚奉公に出され、働きながら剣術、柔術を学びました。
博道は富山で斎藤理則から「山口流」の目録を授かっていますが、17歳で上京した時は段位を持っていた囲碁で生計を立てようとしていたといわれています。
しかし、博道は偶然にも囲碁の出張先であった『有信館』道場に入門することになりました。
博道は身長160cm、体重60kg足らずの体格でしたが、入門を勧めたのは道場主の根岸信五郎であり、理由は竹刀の音が気になって囲碁に集中できていなかったからともいわれています。
当時の『有信館』は地獄の稽古で知られており、貧弱な博道は先輩からの猛烈なしごきに合ってなかなか上達しませんでした。
このままでは所詮モノにならずに終わってしまうと考えた博道は、睡眠時間を4時間に削り、鼻緒の緩んだ下駄をわざと履いて足腰を鍛え、腰が高いという理由で腰に漬物石を結び付けて稽古を行うなど、自分を徹底的に追い込んでいきました。
そして、厳しい稽古の甲斐あって博道は31歳で「神道無念流」の免許皆伝を受け、やがて根岸信五郎の養子となって道場を引き継ぐこととなりました。
出典:http://kendo-entertainment.info/
その後、中山姓に戻した博道は本郷真砂町に建て直した道場で「神道無念流」を指導していましたが、明治45年(1912)に剣道の統一普及を目指す大日本武徳会の剣道形制定委員の一人に選ばれ、師の根岸信五郎と共に大日本帝国剣道形制定に尽力します。
そして博道は武道家として居合術、杖術、槍j術、弓術、銃剣術、西洋剣術などあらゆる武道を探求し、やがて大日本武徳会から前人未到の剣道・居合術・杖術の三範士号を授与されてライバルだった『明信館』の高野佐三郎とともに剣道界の最高権威者となっていきました。
竹刀剣道と戦争
剣道家として有名だった博道が居合術を極めたことで、これまで剣術の影に隠れていた居合術が注目され、今日の発展に繋がったとされています。
また、博道は合気道創始者の植芝盛平とも親交を持ったほか、この頃に沖縄から伝わった唐手(空手)の真価を見抜き「唐手は素手による剣術である」と評価するなど、新しい武道に対しても積極的に関わりました。
一方、原点である剣術について博道は「竹刀剣道も古武道と呼ばれる各流派の形の剣術も一つである」との考えから、これから剣術を学ぶものが「竹刀稽古と形稽古は別物」と考えてしまう恐れがあると危機感を持っていました。
このため、高野佐三郎が東京高等師範学校・嘉納治五郎の下で体育的な剣道を推進したのに対し、博道はあくまで古流にこだわり、スポーツ的な現代剣道を「剣道が竹刀踊りの遊戯化したものに落ちないことを願う」と痛烈に批判しています。
このような思いがあったからか、のちに博道は全日本剣道連盟から初の「剣道十段」授与を打診されても受け取っていません。
出典:https://search.yahoo.co.jp/
その後、「昭和の剣聖」とも称えられた博道は太平洋戦争中、日本軍からの依頼で一日に500振り以上の軍刀の試し斬りを行いました。
博道は自分の持っていた多くの刀を出征していく門人たちに贈呈しましたが、戦地で功績を挙げた者もいた一方で、うまく刀を扱えずに敵を殴りつけるだけになったり、自分を斬ってしまうという者も多かったといいます。
これに博道は「竹刀での練習と日本刀の実戦が同じと考える者に対する警告である」と語っています。
戦後、大日本武徳会はGHQの指令により解散することになり、剣道の組織的活動は禁止され、日本軍とも関わっていた博道は戦犯容疑をかけられて拘置所に収監されました。
のちに博道は無罪となり釈放されますが、すでに高齢であったために疲弊し、戦後の混乱の中で道場『有信館』も手放すことになりました。
その後、博道は形式的に武道団体の名誉職を務め、昭和33年(1958)に死去しました。享年86。
おわりに
おそらく最後の「剣聖」であろう中山博道。
古流にこだわり、スポーツ剣道を批判するところは正に「剣聖」の名にふさわしいと思います。
一方、今日の剣道があるのは中山博道のライバルだった高野佐三郎がいたおかげ。
高野佐三郎より10歳年下の中山博道はさすがに面と向かっては批判できなかったのかな?
二人の試合記録はないとされていますが、一説には『済寧館』で試合をして高野佐三郎が上段から小手で勝ったとか。
また他にも、中山博道が是非立合いたいと宮内省の役人を動かして高野佐三郎に承知させたものの、試合の直前に高野佐三郎から「右膝が悪いからできない」と断られたとか。
実際、年齢の違いから試合する時期で勝敗の行方は変わってしまうはずなので、やっぱり夢の対決は夢のままの方が美しいのかも。
形を披露する中山博道(右)と高野佐三郎(左)
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