はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【逸見宗助】です。【逸見宗助】は「立見流」という逸見家に伝えられた剣術を使い、のちに警視庁を救うこととなる伝説の剣豪です。それでは【逸見宗助】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
逸見宗助
名前:逸見宗助
流派:立身流
出身:下総国
年代:江戸時代末期~明治時代(1834~1894)
藩外不出の剣
逸見宗助は下総国の佐倉藩士で「立身流」の第17代宗家であった逸見忠蔵信敬の子として生まれました。
生年は天保5年(1834)とも天保14年(1843)ともいわれています。
宗助が父から学んだ家伝の「立身流」は袋竹刀で打ち合うという古式の剣法でしたが、江戸時代の佐倉藩では藩外不出の武術とされ、藩主から藩士までが学ぶべき武芸として重要視されてきました。
やがて江戸で竹刀防具を用いる剣術が盛んになると、佐倉藩は他流試合を許し「北辰一刀流」や「鏡新明智流」などを招くようになり、宗助も桃井春蔵の高弟・上田馬之助から「鏡新明智流」の指導を受けました。
万延元年(1860)に父から「立身流」の居合目録を受けた宗助は、藩の許しを得て翌年に江戸へ剣術留学に出て、はじめ「北辰一刀流」の千葉栄次郎のもとで稽古しました。
汗かきで、いつも大きくフーと息を吐いていた宗助の稽古を見た千葉門下の坂本龍馬は「大きく、のびのびした立派な稽古だった」と語っています。
こののち、宗助は「鏡新明智流」の士学館で1年間を修行を続けて塾頭となり、帰藩後に刀術所の師範並となりました。
明治に入ると宗助は一時、農業に従事しますが、明治12年(1879)に警視庁の中に撃剣世話掛が創設されると上田馬之助と共に登用されました。
その後、宗助は警視流剣術・居合・柔術を定め、警視庁武術の中心的人物となっていきます。
警視庁の面目
明治17年(1884)、滋賀県県令・籠手田安定が関西の剣客10名を引き連れて警視庁に試合を挑んできました。
この時、「直心影流」の滋賀県警察部・高山峰三郎が撃剣世話掛を相手に36連勝という記録を打ち立てます。
前代未聞の敗戦ぷりに最終日には警視総監・樺山資紀も観戦に訪れたといいます。
そして警視庁の威信をかけて最後に受けて立ったのが宗助でした。
すると宗助は得意の上段の構えから小手を決めて勝利をもぎとり、警視庁の面目を保ったのです。
その後も宗助は、「加藤田新陰流」の松崎浪四郎や「奥村二刀流」の奥村左近太らと名勝負を繰り広げ、侍の存在が忘れ去られる中、開催された天覧兜割試合に出場。
上田馬之助と宗助は失敗しましたが、榊原鍵吉が名刀『同田貫』を用いて成功し、侍としての意地を見せました。
明治27年(1894)に死去した宗助ですが、生前の山岡鉄舟は「剣客はたくさんいるが、逸見だけは真の剣を遣う」と評していたといいます。
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