はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【斎藤弥九郎】です。【斎藤弥九郎】は幕末の志士たちが剣だけでなく様々な教育を受けることができた「練兵館」を開設し、教育者、軍制改革者としても活躍した伝説の剣豪です。それでは【斎藤弥九郎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
斎藤弥九郎
名前:斎藤弥九郎
流派:神道無念流
出身:越中国
年代:江戸時代後期~明治(1798~1871)
学問好きだった少年時代
斎藤弥九郎は越中国射水郡仏生寺村の農民、組合頭・斎藤新助信道の長男として生まれました。
幼い頃の弥九郎は、国学者の新刊に学んで儒学者になりたかったのだといいます。
文化7年(1810)、弥九郎は油屋や薬屋の丁稚となりますが思うようにいかず、2年後にたった一分の旅金を持って江戸に向かいました。
途中、旅人の荷担ぎをして駄賃を稼ぎ、何とか江戸にたどり着いた弥九郎は、郷里のツテで旗本・能勢祐之丞の従者となって住み込みで働き、夜は書物を読みふけります。
これに感心した祐之丞は弥九郎を「神道無念流」の岡田十松吉利の道場に入門させ、さらに高名な先生たちから儒学、兵学、文学、砲術、馬術などあらゆる学問と武芸を学ばせました。
すると弥九郎はメキメキと力をつけ、20代で岡田道場撃剣館の師範代に昇進し、師匠の死後は後継者の岡田利貞を後見する立場となっていきました。
人間教育の場、練兵館
文政9年(1826)、29歳となった弥九郎は独立して『練兵館』を創立しました。
この練兵館が他の道場と違っていたのは、漢学から兵学、砲術、団体統率や指揮訓練まで総合的な『武』を教えていたことにあった。
このため練兵館は『技の千葉(玄武館)』、『位の桃井(士学館)』と並んで『力の斎藤(練兵館)』と呼ばれ、後に幕末江戸三大道場と呼ばれるようになります。
練兵館での教育は早朝に素読、その後に剣術稽古、午後からは諸藩に出稽古に行く者と、兵学、砲学を学ぶ者に分かれます。
剣だけでなく口でも戦わせて、自分の意見を論理的にする訓練や、人の意見に耳を傾けて自分の見識を広げる姿勢を学ばせました。
さらに弥九郎は代々木に3,000坪の土地を持って門弟たちに開墾させ、個人の力を磨く剣だけでなく、開墾によって共同事業を成し遂げる達成感を与える人間教育を施しました。
弥九郎はこの開墾事業が終わると、次はそこで洋式調練を実施し『練兵館』の名の通り、軍兵の調練を行っています。
志士を育てた剣豪
弥九郎は「粥になるな。握り飯になれ」との言葉を残しています。
これは『藩の中でドロドロに溶けるのではなく、日本という握り飯の中で一粒の米になれ』という意味で、タテ割り組織の社会を超えてヨコの繋がりを推奨しています。
幕末に活躍する志士たちが練兵館に多く集まったのは、このような教育方針があったからともいわれます。
さらに弥九郎の長男・斎藤新太郎は廻国修行で各地の剣豪を破っていたため、幕末の雄藩・長州藩は「神道無念流」を高く評価して多くの藩士を練兵館に送って学ばせていました。
桂小五郎(木戸孝允)は練兵館の塾頭を務めたこともあり、他にも高杉晋作、品川弥二郎、井上馨、伊藤博文ら名だたる偉人たちも入門しています。
弥九郎は練兵館創立の資金援助をしてくれた撃剣館の同門・江川英龍に仕え、軍事防衛の最新知識を吸収していました。
このため、大坂で起こった大塩平八郎の乱では江川の命で大坂へ赴いて調査し、浦賀に黒船が来航した際は品川の台場築造で実地測量や現場監督を行ったといいます。
さらに弥九郎は長州藩だけでなく、徳川斉昭や藤田東湖らの水戸藩からの信頼も厚く、将軍継嗣問題に際しては同じ一橋派の福井藩主・松平慶永から慶喜擁立のための工作を依頼されるなど政治的活動も行っています。
戊辰戦争では新政府軍による江戸城無血開城ののち、弥九郎は旧幕臣たちから彰義隊の首領に望まれますがこれを拒絶し、明治政府に出仕して造幣寮の権允となりました。
造幣寮が火事になった時、弥九郎は猛火の中に飛び込み、大火傷を負いながらも重要書類を運び出した逸話を残しています。
おわりに
斎藤弥九郎は剣において表舞台に立つことはありませんが、総合的な人材育成に尽力した功績は剣を学んだ者の中では群を抜いています。
農民出身の弥九郎が唱えた「粥になるな。握り飯になれ」は下級武士たちの心を捉え、実用的な事が学べる練兵館の中で明治維新を成し遂げる者達を育てました。
もし、弥九郎がいなければ明治維新は無かったのかもしれません。
そういった意味では「剣豪」というよりは「教育者」と言う方が正しいのかもしれませんが、後世に語り継がれていくべき隠れた偉人であることは間違いありません。
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